なぜ八雲は盆踊りに惹きつけられたのか
来日初日、横浜の寺での鏡との遭遇を経て、小泉八雲はさらに深く日本へと入り込んでいくことになる。松江に英語教師として赴任する道中、鳥取県の上市(うわいち/現在は西伯郡大山町に属する)で盆踊りを見学した八雲は、その光景にいたく感動したと、『日本の面影』所収の「盆踊り」に記している。盆踊りの何がそれほど八雲を惹きつけたのだろうか。早稲田大学教授・同国際言語文化研究所所長の池田雅之(いけだ・まさゆき)氏が解説する。
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盆踊りとは、亡くなった人の霊を呼び、その霊とともに踊り手が踊るものです。そうすることで死者と生者が交わり、交流する。あるいは、死者と生者のあいだに何か霊的な照応(コレスポンダンス)が起こるといってもよいでしょう。八雲は盆踊りを見ているうちに、それを体験したわけです。彼はこの体験を回想しながら、次のように記しています。
あの素朴な村娘たちの合唱によって私の胸に湧(わ)き起こった、あの感動は、いったい何だったのだろう──床につきながら、私はそんなことを考え始めていた。あの絶妙な間合と、断続的に歌われた盆踊りの唄の調べを思い出すことは難しい。それは、鳥の流れるようなさえずりを、記憶の中に留(とど)めておけないのと同じである。しかし、その何ともいえない魅力は、いつまでも私の心から消え去らないのである。
西洋のメロディなら、それが、私たちの胸に呼び起こす感情を言葉にすることもできるであろう。それは、自分たちの過去を遡さかのぼる、すべての世代から受け継がれてきた母国語のように、われわれになじみのある感情でもあるからだ。ところが、西洋の歌とはまったく異なる、原始的な唄が呼び起こす感情は、いったいどう説明すればいいのであろう。あの音色は、われわれの音楽言語である音譜に移しかえることさえできないのではないだろうか。
この「盆踊り」という作品は、精霊に捧げる娘たちの舞いのリズムと、西洋人である八雲の身体とが共振し合いながら書かれたものです。生者が死者の霊を迎えて共に舞う盆踊りは、霊的なコズミックダンス(宇宙的舞い)といってよいものですが、この作品は八雲の身体も霊魂もその踊りの輪の中に入っていき、一緒に踊っているといった感覚で書かれています。八雲は耳慣れない音階と歌声にとらえられながらも、そのとらわれている自分自身の不思議な感情について、この作品の終わりで次のように問いかけています。
そもそも、人間の感情とはいったい何であろうか。それは私にもわからないが、それが、私の人生よりもずっと古い何かであることは感じる。感情とは、どこかの場所や時を特定するものではなく、この宇宙の太陽の下で、生きとし生けるものの万物の喜びや悲しみに共振するものではないだろうか。
八雲は妙元寺で盆踊りに没入しながら、ニューオーリンズやマルティニーク島で感じたのと同様の、なつかしい感情と感動を味わったのです。初めて見た「盆踊り」の舞いと唄声を通じて、人間と万物に共通する喜びと悲しみの情感をしみじみと感じ取ることができた。日本における盆踊りのリズムと自己の身体性におけるコズミックな共振を通じて、いってみれば八雲は、自分自身とも再び出会うことができたのではないでしょうか。
人間の感情とは場所や時に特定されず、万物に共振するもの──。八雲はこのように書きとめることによって、自分自身と出会う旅を続けながら、さらに日本と日本人の中へ深々と入っていく契機を摑んだものと思われます。
■『NHK100分de名著 小泉八雲 日本の面影』より
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盆踊りとは、亡くなった人の霊を呼び、その霊とともに踊り手が踊るものです。そうすることで死者と生者が交わり、交流する。あるいは、死者と生者のあいだに何か霊的な照応(コレスポンダンス)が起こるといってもよいでしょう。八雲は盆踊りを見ているうちに、それを体験したわけです。彼はこの体験を回想しながら、次のように記しています。
あの素朴な村娘たちの合唱によって私の胸に湧(わ)き起こった、あの感動は、いったい何だったのだろう──床につきながら、私はそんなことを考え始めていた。あの絶妙な間合と、断続的に歌われた盆踊りの唄の調べを思い出すことは難しい。それは、鳥の流れるようなさえずりを、記憶の中に留(とど)めておけないのと同じである。しかし、その何ともいえない魅力は、いつまでも私の心から消え去らないのである。
西洋のメロディなら、それが、私たちの胸に呼び起こす感情を言葉にすることもできるであろう。それは、自分たちの過去を遡さかのぼる、すべての世代から受け継がれてきた母国語のように、われわれになじみのある感情でもあるからだ。ところが、西洋の歌とはまったく異なる、原始的な唄が呼び起こす感情は、いったいどう説明すればいいのであろう。あの音色は、われわれの音楽言語である音譜に移しかえることさえできないのではないだろうか。
この「盆踊り」という作品は、精霊に捧げる娘たちの舞いのリズムと、西洋人である八雲の身体とが共振し合いながら書かれたものです。生者が死者の霊を迎えて共に舞う盆踊りは、霊的なコズミックダンス(宇宙的舞い)といってよいものですが、この作品は八雲の身体も霊魂もその踊りの輪の中に入っていき、一緒に踊っているといった感覚で書かれています。八雲は耳慣れない音階と歌声にとらえられながらも、そのとらわれている自分自身の不思議な感情について、この作品の終わりで次のように問いかけています。
そもそも、人間の感情とはいったい何であろうか。それは私にもわからないが、それが、私の人生よりもずっと古い何かであることは感じる。感情とは、どこかの場所や時を特定するものではなく、この宇宙の太陽の下で、生きとし生けるものの万物の喜びや悲しみに共振するものではないだろうか。
八雲は妙元寺で盆踊りに没入しながら、ニューオーリンズやマルティニーク島で感じたのと同様の、なつかしい感情と感動を味わったのです。初めて見た「盆踊り」の舞いと唄声を通じて、人間と万物に共通する喜びと悲しみの情感をしみじみと感じ取ることができた。日本における盆踊りのリズムと自己の身体性におけるコズミックな共振を通じて、いってみれば八雲は、自分自身とも再び出会うことができたのではないでしょうか。
人間の感情とは場所や時に特定されず、万物に共振するもの──。八雲はこのように書きとめることによって、自分自身と出会う旅を続けながら、さらに日本と日本人の中へ深々と入っていく契機を摑んだものと思われます。
■『NHK100分de名著 小泉八雲 日本の面影』より
- 『小泉八雲『日本の面影』 2015年7月 (100分de名著)』
- NHK出版 / 566円(税込)
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