天野宗歩VS.大橋宗珉──江戸時代末期の御城将棋

初代宗桂に始まった江戸の将棋文化は江戸260年の間にさまざまな進化を遂げました。その中心に大橋家、大橋分家、伊藤家の将棋三家があったことは言うまでもありません。
一方、江戸時代の後期になると、将棋家とつながりがありながら、その跡継ぎにはならず、家元を離れ、在野の強豪として活躍する棋士も現れました。大橋柳雪と天野宗歩はその代表といえるでしょう。天野宗歩はその圧倒的な実力を元に、家元とは別の形で新たな継承者を生み出していきます。
江戸末期の将棋文化について、石田和雄(いしだ・かずお)九段が語ります。

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江戸時代の将棋文化は将棋三家がリードする形で発展しました。詰将棋の世界では18世紀の中頃、三代伊藤宗看と看寿の兄弟が一つの頂点を極めたことは前号で話しました。
一方、指し将棋のほうも、七世名人の三代宗看から八世名人の九代大橋宗桂、九世名人の六代大橋宗英と立て続けに強豪が現れます。将棋家の当主の強さは絶対的であり、それを守るために将棋三家は人材の確保に腐心します。才能のない子どもは廃嫡(はいちゃく)され、養子を招くこともよくありました。
ただ、頂点を極めたものは、いつか下り坂に向かいます。詰将棋の世界は、先に述べた宗看と看寿の作品のレベルがあまりにも高かったため、その後はだんだん衰退してしまいます。歴代の名人が幕府に詰将棋を献上する伝統もいつか絶えてしまいました。
三代宗看や六代宗英が高めた指し将棋のレベルを守るのも容易なことではありませんでした。将棋家の苦心にも関わらず、江戸時代の後期になると、圧倒的な強さの名人はなかなか現れなくなったのです。
そんな中で、将棋家のしきたりや家風に合わず将棋家を離れた棋士の中に強豪が現れます。大橋柳雪は大橋分家七代宗与の跡継ぎでしたが廃嫡され、将棋家を離れてから在野の強豪として名を残すことになります。天野宗歩は才能を見込まれ、5歳で大橋本家大橋宗金の弟子になり、14歳で二段、15歳で三段になった天才少年ですが、将棋家の跡を継ぐことはなく、八段への昇段が絶たれてからは、将棋三家とは独立した形で活動をするようになり、多くの門下生を育てました。
宗歩の人気は将棋家の棋士を凌駕(りょうが)し、その弟子は門前に列をなしたといわれ、宗歩の墓には門下49名の名前が刻まれています。特に天野宗歩の四天王と呼ばれた市川太郎松、渡瀬荘次郎、小林東四郎、平居寅吉の4人は強豪として知られ、その中の小林は十二世名人の小野五平死去に際して名人候補となった井上義雄や阪田三吉の師に当たります。
また、小野五平自身も若いころ、宗歩の指導を受けたことがあり、宗歩門下と呼ばれることがありました
また、若いころの八代伊藤宗印と互角に近い戦いをし、やはりのちの名人となる小野五平に勝ち越した大矢東吉も16、17歳のときに天野宗歩と対戦して、大いに影響を受けたとされます。
天野宗歩は将棋家を離れても、その強さと人気が抜群であったため、将棋家もこれを無視できず、宗歩の師である十一代大橋宗桂らの推薦を得て、御城将棋も指しています。その御城将棋で宗歩と戦ったのが、大橋分家の八代宗珉です。宗歩と宗珉の戦いについては、その実戦譜の中で詳しく触れます。
このように、江戸末期の将棋界は将棋家の枠組みを離れる形で、裾野を広げていったのです。小野五平や大矢東吉らの出現もその延長線上にあるといえます。

■御城将棋で対決

弘化2年(1845年)、30歳になった天野宗歩(当時の名前は富次郎ですが、ここでは宗歩の名前を使います)は上方から江戸に戻り、大橋分家の宗珉と対戦します。すでに名高い宗歩に対し、1つ下の宗珉も17歳から御城将棋を勤める大橋分家期待の星です。もちろん、宗珉もなみなみならぬ闘志を燃やして臨んだことでしょう。

ハイライト図は後手の宗珉が☖5六歩と垂らしたところ。この手は次に☖6五桂を狙って非常に厳しい。先手の受けも難しいところですが、宗歩は強気の応戦をします。先手の次の一手をお考えください。
※この後の展開と棋譜はテキスト別冊付録「リバイバルNHK将棋講座 古い棋譜を訪ねて」に掲載しています。
■『NHK将棋講座』2015年6月号より

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