天彦が見た「将棋界の一番長い日」
将棋界の一番長い日と呼ばれるA級順位戦最終局。テキスト『NHK 将棋講座』2015年6月号では、来期は自身がその舞台に立つ佐藤天彦(さとう・あまひこ)八段に寄稿していただいた。ここではその中から、渡辺─久保戦のレポートをお届けしよう。
* * *
今年のA級は大混戦で最終日を迎えた。順位上位から、2敗が行方尚史八段、久保利明九段。3敗が渡辺明棋王と広瀬章人八段。いっぽう残留争いは、危ない順から3勝5敗の三浦弘行九段、森内俊之九段、4勝4敗の郷田真隆王将となっている。深浦康市九段と佐藤康光九段は同じく4勝4敗だが、順位の関係ですでに残留が確定。阿久津主税八段は8連敗で降級が決まっている。
まず最初に終局したのは渡辺─久保戦。時刻は21時39分と、順位戦にしては早かった。感想戦で印象に残るのは、苦々しい表情で感想を述べる久保さんの口元だ。対する渡辺さんは、いつもどおりとはいえ非常に明瞭な語り口。誰に言われずとも、勝者と敗者が分かるような光景だった。
強靱(きょうじん)な粘り腰を持つ久保さんがなぜこの時間帯に投了に追い込まれたのか。僕は3日前の出来事を思い出していた。その日は僕と渡辺さんが対戦、そして共通の友人でもある戸辺誠六段も対局で、対戦相手は西尾明六段。それぞれの対局が終わったあと、渡辺さん、戸辺さん、それに僕の3人で飲みに行った。そのとき俎上(そじょう)にのったのが、渡辺─久保戦で現れた新手☗5八銀(1図)だ。これは戸辺─西尾戦の感想戦で西尾さんに戸辺さんが聞いた手らしい。皆で少し先の変化までつついた。
それが渡辺─久保戦でそのまま現れた。新手☗5八銀は奏功。リードを奪った渡辺さんの快勝となったのだ。さて、この一事をもって、渡辺さんが情報と事前の研究で勝ったとまで言えるだろうか。確かに、事前の研究で良しとされた局面になればかなりのアドバンテージになる。ただ、将棋は良くなってからも大変だ。技術的な部分はもちろん、はやる心をいさめ、残っている長い持ち時間をしっかり使い、丹念に読んで勝ちに持っていくには想像以上の精神力が必要とされる。当然だが、結局は現場での力が重要なのだ。
それに、先日のエピソードには付け加えるべき点がある。☗5八銀の話が出る前、渡辺さんは振り飛車における自分の研究を次々に披露していたのだ。それは専門家の戸辺さんをもうならせるものだった。その精度の高さは、本局の37手目☗4一飛から49手目☗3二角の一連の手順で証明できる。これは3人のときには出なかった順で、渡辺さん独自の研究だ。このような渡辺さんの姿勢があってこそ、戸辺さんも自分にとって脅威ともなりえる情報を話したのだと想像する。僕たちは友人とはいえ、それ以前に勝負師同士だ。
「この人になら教えてもよい」と思えるのは、友人だからという理由だけではなく、自分にとっても有益になるのではないかと思えるからだ。かつて、渡辺さんはトップ棋士が若手棋士に一方的ともいえる形で情報を聞き出すのを批判したことがある。僕はここでその是非を論じるつもりはない。ただ、同じ情報を得るプロセスでも、渡辺さんには渡辺さんなりの流儀があり、表には見えにくいクールなプライドが確かに存在しているということを記しておかなければならないだろう。
しかし、実際問題、これは久保さんにとってはつらかった。ここ数年のA級順位戦最終日の盛り上がりは最後まで諦めず粘り続ける久保さんによるところも多く、僕はひそかに「久保の一番長い日」だと思っていた。ただ、そんな久保さんでもこの日ばかりは厳しかったのかもしれない。
■『NHK将棋講座』2015年6月号より
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今年のA級は大混戦で最終日を迎えた。順位上位から、2敗が行方尚史八段、久保利明九段。3敗が渡辺明棋王と広瀬章人八段。いっぽう残留争いは、危ない順から3勝5敗の三浦弘行九段、森内俊之九段、4勝4敗の郷田真隆王将となっている。深浦康市九段と佐藤康光九段は同じく4勝4敗だが、順位の関係ですでに残留が確定。阿久津主税八段は8連敗で降級が決まっている。
まず最初に終局したのは渡辺─久保戦。時刻は21時39分と、順位戦にしては早かった。感想戦で印象に残るのは、苦々しい表情で感想を述べる久保さんの口元だ。対する渡辺さんは、いつもどおりとはいえ非常に明瞭な語り口。誰に言われずとも、勝者と敗者が分かるような光景だった。
強靱(きょうじん)な粘り腰を持つ久保さんがなぜこの時間帯に投了に追い込まれたのか。僕は3日前の出来事を思い出していた。その日は僕と渡辺さんが対戦、そして共通の友人でもある戸辺誠六段も対局で、対戦相手は西尾明六段。それぞれの対局が終わったあと、渡辺さん、戸辺さん、それに僕の3人で飲みに行った。そのとき俎上(そじょう)にのったのが、渡辺─久保戦で現れた新手☗5八銀(1図)だ。これは戸辺─西尾戦の感想戦で西尾さんに戸辺さんが聞いた手らしい。皆で少し先の変化までつついた。
それが渡辺─久保戦でそのまま現れた。新手☗5八銀は奏功。リードを奪った渡辺さんの快勝となったのだ。さて、この一事をもって、渡辺さんが情報と事前の研究で勝ったとまで言えるだろうか。確かに、事前の研究で良しとされた局面になればかなりのアドバンテージになる。ただ、将棋は良くなってからも大変だ。技術的な部分はもちろん、はやる心をいさめ、残っている長い持ち時間をしっかり使い、丹念に読んで勝ちに持っていくには想像以上の精神力が必要とされる。当然だが、結局は現場での力が重要なのだ。
それに、先日のエピソードには付け加えるべき点がある。☗5八銀の話が出る前、渡辺さんは振り飛車における自分の研究を次々に披露していたのだ。それは専門家の戸辺さんをもうならせるものだった。その精度の高さは、本局の37手目☗4一飛から49手目☗3二角の一連の手順で証明できる。これは3人のときには出なかった順で、渡辺さん独自の研究だ。このような渡辺さんの姿勢があってこそ、戸辺さんも自分にとって脅威ともなりえる情報を話したのだと想像する。僕たちは友人とはいえ、それ以前に勝負師同士だ。
「この人になら教えてもよい」と思えるのは、友人だからという理由だけではなく、自分にとっても有益になるのではないかと思えるからだ。かつて、渡辺さんはトップ棋士が若手棋士に一方的ともいえる形で情報を聞き出すのを批判したことがある。僕はここでその是非を論じるつもりはない。ただ、同じ情報を得るプロセスでも、渡辺さんには渡辺さんなりの流儀があり、表には見えにくいクールなプライドが確かに存在しているということを記しておかなければならないだろう。
しかし、実際問題、これは久保さんにとってはつらかった。ここ数年のA級順位戦最終日の盛り上がりは最後まで諦めず粘り続ける久保さんによるところも多く、僕はひそかに「久保の一番長い日」だと思っていた。ただ、そんな久保さんでもこの日ばかりは厳しかったのかもしれない。
■『NHK将棋講座』2015年6月号より
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