少しの言葉の中からあふれ出る作者の思い──俳句の不思議

『NHK俳句』に連載中の講座「びっくりして嬉(うれ)しくなる俳句」では、俳人の池田澄子(いけだ・すみこ)さんが、読んでみてハッとするような驚きの発見がある俳句を紹介しています。5月号では、使われている言葉は少ないのに、たくさんの思いや主張が伝わってくる二句を取り上げます。

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花鳥諷詠(かちょうふうえい)という言葉があるように、俳句では多く、自然が詠(よ)まれます。そして高浜虚子(たかはま・きょし)は〈明易(あけやす)や花鳥諷詠南無阿弥陀(なむあみだ)〉とまで詠んでいます。私たちは、自然の在(あ)り様に触発されて、其処(そこ)に思いを重ねる場合が多いでしょう。ほんの少しの言葉ですから、何かを主張することなど出来そうもないのに、何故(なぜ)か思いが、あるいは、作者・人間の姿が、一句の中にたっぷりと見えてくることがあります。原稿用紙が何枚も要(い)るような、思いの機微(きび)や、その人の置かれている境遇までもが見えてくることがあります。それが俳句という詩形式の不思議なところです。そして更(さら)に不思議なことに、自分の思いを伝えたくて直接的な物言いになったとき、その五七五の十七音は、十七音以上には広がってくれません。
藍々と五月の穂高雲をいづ

飯田蛇笏(いいだ・だこつ)


「五月の穂高」を私は見たことがありませんが、言葉によって見えます。「雲をいづ」という時の手を叩(たた)きたいほどの喜び。美しさと威厳、そして親しさなのだろうなあ、と共感します。
目つむりていても吾(あ)を統(す)ぶ五月の鷹(たか)

寺山修司(てらやま・しゅうじ)


寺山修司は表現行為をするために生まれてきたような人でした。その彼が最初に夢中になったのは俳句でした。高校生時代です。その後、大学生時代には短歌に没入し、以後、小説、演劇などなど広いジャンルでの表現活動に熱中して、此(こ)の世を光のように通過していきました。最後に、彼はもう一度、俳句に戻ろうとしました。俳句は彼にとって、最終的に捨てきれない帰る場所だったようです。五十歳に近付いていた彼が、これからどういう俳句を作ろうとしていたのか、それが見られなくて口惜しいです。
この句、「五月」という季節にこそ似合っています。五月の明るさの中に君臨する「鷹」は、少年から青年になる一人の男を輝かせます。反面、自惚(うぬぼ)れや劣等感、苛立(いらだ)ちや憂(うれ)いや、大きすぎる希望や野心に揉(も)みくちゃになっている青年は、その鷹に操(あやつ)られ支配されている快感と屈辱から、逃れられないらしいのです。
俳句は、このような甘美、憂愁の景まで立ち上がらせることが出来るものらしい、と、この句は思わせます。このような寺山修司の俳句は、若い人たちにも俳句の魅力を伝え、関心を持たせてくれました。若くして俳句に出会わなかった私は、こういう青春を詠んだ句がないので尚のこと、羨(うらや)ましく、ちょっと妬(ねた)ましくさえ感じます。
■『NHK俳句』2015年5月号より

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