アンネ・フランクが連行された日

アンネ・フランクの銅像
ナチス・ドイツの迫害を逃れ、1942年から隠れ家生活を送っていたアンネ・フランクとその家族。献身的な支援者に支えられながら終戦の日を待ち望んでいたアンネの希望は、1944年8月4日に無慈悲にも打ち砕かれてしまう。エッセイ『アンネ・フランクの記憶』などを著した作家の小川洋子(おがわ・ようこ)氏が、アンネたちが連行された日の出来事を語る。

* * *

そして運命の8月4日がやってきます。周辺の人々の証言から、アンネたちのその後を追ってみましょう。
先にも紹介したミープ・ヒースの回想録によると、この日は普段通りの、なんの変哲もない金曜日だったそうです。ミープが隠れ家の階下にあるオフィスで仕事をしていると、お昼前、ふと見上げた戸口に見慣れない男が立っていました。彼はリボルバーを持ち、ミープたちに「そこにいろ」と告げます。
支援者のクレイマンとクーフレルの二人は、女性たちを巻き込まないように取りはからいました。ユダヤ人を匿(かくま)った協力者もまた逮捕されるこの時代、機転を利かせ、ミープたちが連行されないよう、「なにも知らぬ局外者」として守ろうとしたのです。そのあと、ミープは階下の部屋で、古い木造階段にひびく、八人の足音を聴きます。「その足音から、みんなが打ちのめされた犬のように降りてくるのがわかった」(『思い出のアンネ・フランク』)。その足音が、さよならの挨拶となりました。
彼らが連行されていなくなったあと、ミープとベップは隠れ家に入り、乱雑に放り出された書物の山のなかに日記帳を見つけます。目で合図し、ベップと一緒にそれを拾い始めるミープ。日記はすでに一冊のノートでは収まらず、さまざまな種類とサイズの用紙を束ねた、紙の集合体になっていました。なぜそれを拾ったかは自分でもわからない、と彼女はのちに語っています。勝手な真似をすれば、証拠隠滅のとがで逮捕される危険もありました。それでもいちばん最初に拾ったのが日記でした。ミープはこう言っています。「日記はアンネの命そのものでした」(拙著『アンネ・フランクの記憶』角川文庫)。隠れ家の外から見ているだけでも、アンネが日記をなによりも大事にしていることに気づいていたのです。
アンネの日記に、とても有名な一節があります。
わたしの望みは、死んでからもなお生きつづけること!

(1944年4月5日)



これは、考えてみれば不思議なフレーズです。まるで自分の書いた日記が、死後、世界中で読まれることを予言しているかのようです。ミープは、このアンネの望みを叶えるための第一の手助けをしました。彼女の危険を顧みない行動がなければ、わたしたちは『アンネの日記』を永遠に喪失していたのです。
ミープのこの日の行動でもうひとつ意味深いと思うのは、拾い集めた日記の束で腕がいっぱいだったにもかかわらず、アンネの化粧ケープを持ち出したことです。「出てゆくときに、わたしは洗面台とトイレのある部屋を通り抜けた。ふと、壁のフックにかかっているアンネの化粧ケープが目にとまった」(『思い出のアンネ・フランク』)。ベージュ地に小バラ柄の、金銭的にはなんら価値のないケープでしたが、それをとっさに手に取り部屋を出るのです。ミープは、アンネが隠れ家にあっても髪の毛を大事にし、ケープを愛用していたことを反射的に思い出したのです。
わたしがミープさんのもとを訪ねたとき、彼女は戸棚に保管してあったそれを取り出して、見せてくれました。ずいぶんと時間が経ち、色あせてはいましたが、少女の持ち物にふさわしい可愛らしさは残っていました。歴史的に貴重な品が、すぐ手の届く生活の場にある事実に、わたしは感動を覚えました。隠れ家の人々と支援者たちのつながりの深さを表わしているかのようだったからです。
わたしはそれを見つめながら、ミープはアンネの精神の象徴である日記と、肉体の象徴である化粧ケープ、そのふたつを救い出したのだと感じました。フランク一家と本当に深く通じ合い、命を賭けて付き合った関係だからこそ、混乱のなかでも真に大切なものを見極められたのだと思います。
■『NHK100分de名著 アンネの日記』より

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