「なぜみな女流という目で見るのか」──吉田美香八段、女流としての葛藤

撮影:小松士郎
22歳で初タイトルとなる女流本因坊を奪取したときでさえ、「これはもう過去のことだ」と思っていたという吉田美香(よしだ・みか)八段。人を男女で分けて考えるという発想を持っていない吉田八段には「碁界にはもっと強い男性棋士がいくらでもいる。私が目指すべきはそこなのだ」という意識があった。結婚、出産を経験し、現在二児の母でもある吉田八段は、かつて女流として、さらには家族を持つ母としての葛藤と戦い続けていた。

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■女流としての葛藤

お話ししたように、私は人を男女で分けて考える習慣がありません。ですから男性社会であった当時の碁界に反発する気持ちがあり、「私は一人の人間として碁が強くなりたいだけなのに、どうしてみんな“女流”という目で見るのだろう」という葛藤がありました。
女流はどうしても「結婚・出産・育児」の問題がありますから、やむをえない面はあるのですが、だからといって「女性だから棋士としての成長が止まるだろう」と見られることには大きな抵抗があったのです。ですから十代のころの私は「結婚も出産もしない。女を捨てて碁打ちとして生きる」と考えていました。
ただ、結婚して子供も産んだ今となってみて分かったことですが、やっぱり性別の差はあると思います。車の運転をするようになって意識したのですが、男性は空間処理能力に優れています。女性は信号の赤が見えない日があったりしますから…。
ただしそれは優劣ということではなく、向き不向きという方向性なのだと思います。男性は大局観に優れていて、水面下での争いが大きいように思えます。一方で女性は思い切りがよくて粘り強い一面がプラスでしょうか。かつては「男性のほうが体力があるので、粘り強さも男性のほうがある」と思っていたのですが、自分が子供を産んでみたら「女性のほうが粘り強いかもしれない」と思うようになりました。

■家庭と碁と…

最後にタイトルを獲得してから、もう16年がたちました。そしてこの期間、とにかく苦しんでいます。「苦しんでいた」ではなく「苦しんでいる」という状況で、もちろん今も続いているわけです。
時々「あ、いけそうだ」と思う時期がくるのですが、ものすごく不思議な負け方をしてしまう──「何でこの碁を負けなきゃいけないんだ!」という碁で挑戦者を逃したりとか…。
そうしている間に結婚して子供ができて、もうひと言では言えないくらい大変です。育児というのは、非常に立派な仕事です。大げさに言えば、日本の未来のお手伝いをするわけですから。でもプレーヤーとしては、子供を早く預けて碁の勉強時間を持ちたい──この二つの気持ちの板挟みです。
でも自分の母が私にしてきてくれたことを考えると「ああ私は、母の生命を食べてここまで生きてきたんだなあ」と感じるのです。ですから「その生命はお返ししよう」と思わずにはいられません。
預けようと思えば可能ではありましたが、でも仮にそれで勉強時間を作ってタイトルを取れたとしても、娘二人にとって最も母親が必要な時期にいなくて、彼女たちの涙に報えるのだろうかと考えました。そして出た結論が「やっぱりそうやってタイトルを取っても、幸せを感じられないだろうな。後悔するだろうな」というものだったのです。
そうした覚悟を決めたのですから、これはもうしかたがないのですが、手合では本当に勝てなくなりました。ある女流棋士に「家庭も碁もは無理よ」と言われていたのですが、今になってその言葉の意味を痛感させられています。
特にここ2年間は本当に調子が悪く…。どんなに形勢のいい碁でも勝てず、棋士になって以来、この2年間が最も多く泣いています。負けたから悔しいのではなく、プロとしての仕事をさせてもらえないから…。
対局に臨む大前提として、勉強したり心身を整えたりするのは当然なのですが、その当たり前のことができない…。子供にはさまざまなアクシデントが起こりますから、一睡もできずに対局当日の朝を迎えてしまったことなどは何度もあります。だからといって子供のせいにはできないし、結果がすべての世界ですから…。
だったら育児に専念して、家族と一緒に穏やかな人生で満足すればいいという考えもあるのでしょうが、それはやっぱり私の性分が許さないのです。研ぎ澄まされた世界にいたいし、碁を通じて自然の理(ことわり)や人の持つ美しさが見たい。自分の気性を殺して生きることは苦しいわけで、この2年間ずっと泣いていたのは、この葛藤によるものがほとんどでした。
■『NHK囲碁講座』2015年3月号より

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