実は人間的で知性が高い『フランケンシュタイン』の怪物
- 『フランケンシュタイン』の作者メアリ・シェリー
『フランケンシュタイン』にはさまざまな誤解がある。フランケンシュタインとは怪物ではなく、怪物を生み出した科学者の名前であるということ。そして唸り声をあげながら破壊したり殺人を犯したりする凶悪な怪物像も、原作とは大いに異なっているということ。
科学者ヴィクター・フランケンシュタインは怪物に命を与えながら、そのあまりの醜さに恐れをなし、捨てて逃げてしまう。怪物は森の中で生活しながら、徐々にこの世で生きていくために必要な知識を習得していくが、原作では、怪物が人間の思考法や習慣を学んでいくくだりは、怪物自身を語り手として綴られる。
原作を読むことでしか知ることのできない怪物の人間的な面と知性を、京都大学大学院教授の廣野由美子(ひろの・ゆみこ)氏が解説する。
* * *
怪物はいわば捨てられた子供のような立場にありました。「おれは哀れで、寄る辺なく、惨(みじ)めだった」(11章)と述懐しますが、ここでは見捨てられた存在であることの哀しみを吐露(とろ)しているとも読めます。怪物は最初から殺人鬼だったわけではなく、傷つきやすい子供のような無垢(むく)な性質を具(そな)えていたのです。
生まれて間もないころの経験を語る怪物の言葉が、斬新な効果を発していることは、注目に値します。怪物は、目にする事物を見慣れないものとして、新鮮な感覚で捉えて表現するのです。たとえば、暗闇は「薄黒い不透明な固まり」であり、あるいは月の光は「木々の間から昇って来る光った形のもの」と示されます。これは、怪物が暗闇や月という概念をいまだ知らず、言葉に先立ってそれ自体を体験したときの感覚を表していて、ロシア・フォルマリズムの言語学者ヴィクトル・シクロフスキーがいう「異化」作用そのものです。通常慣れ親しんだ言語表現がいったん留保され、認識の過程も含めた生々しい感覚で事象が表現されることで、私たちもまた日常的なものを新鮮に捉え直すことができるわけです。
とりわけ、「火」の概念を獲得したところは面白いので引用します。
ある日、寒さにこごえていると、浮浪者が残していった火を見つけ、その暖かさに、おれは嬉しさでいっぱいになった。喜びのあまり、燃えている残り火に手を突っ込んだが、痛さに叫び声をあげて、すぐさま手を引っ込めた。同じひとつの原因が、これほど正反対の結果をもたらすとは、なんて不思議なのだろうと思った。(……)火が熱だけではなくて明かりにもなるとわかって、おれは嬉しくなった。それに、火というものを発見したことは、食べ物にも役立った。旅人が食べ残したもののなかに焼いたものがあり、木から採った生(なま)の実よりも味がよいことがわかったのだ。 (第11章)
怪物は、火が暖かさと同時に、手に触れれば痛みを与える両義的なものだと知ります。また、火を絶やさないように工夫するなかで、「これは自分のもの」という所有の感覚を覚え、食べ物に対しての火の有用性にも気づいていきます。焼くとイチゴは台無しになるが、木の実や根は美味しくなる、というように。こうした怪物の語りは、火に関する当たり前のことを、あらためて「ああ、そういうものかもしれない」と考えさせてくれる点で、まさに「異化」のはたらきを及ぼすのです。
怪物の、子供のような純真さが最も際立つのが、隣人であるド・ラセー一家に対して憧れを募らせるところでしょう。
娘は家の片づけをしていたが、間もなく引き出しから何かを取り出し、手作業を始めて、老人の傍らに腰かけた。老人は、道具を手に取って奏(かな)ではじめ、ツグミやナイチンゲールの鳴き声よりも甘い音を出した。それは、これまでに美しいものを見たことがない自分のような哀れな者にとってさえ、うっとりとするような光景だった。(……)おれは奇妙な圧倒されるような感覚を覚えた。それは、空腹や寒さ、暖かさや食べ物からも、いまだ味わったことのない、痛みと喜びの混ざり合ったものだった。この感情に耐えきれず、おれは思わず窓から身を引いた。 (第11章)
鳥の鳴き声よりも甘い音とは、音楽のことです。道具とは、すなわち楽器。人間は音楽に感動することができますが、怪物もまた、この光景を見ることで初めて音楽というものを知り、家族の暖かさを知るのです。私たちがもし、ド・ラセー一家を見かけたとしても、たんに貧しい普通の人々がいると思うだけかもしれません。しかし怪物の目には、家族間の愛情やその穏やかな生活ぶりがこのうえなく美しく、高貴なものとして映ったのでした。
この感動は、怪物の一人称という語りを通じて語られるからこそ、伝わってくるのでしょう。他の登場人物のフィルターをとおした一人称の視点や、外部から客観的に事態を認識する三人称の視点にはない、切々と直接訴えかけてくる効果が、ここには表れているのだと考えられます。
怪物は、彼らが醸(かも)し出す幸福のオーラに憧れを抱きます。夜中に薪(まき)を運んだり、雪かきをしたりと、一家のために姿を隠して働くことも厭(いと)いません。親しくなりたいと願い、どのようにすれば自分を受け入れてくれるだろうかと夢想までします。
そうした生活をつづけるうちに、怪物は書物を読むようになります。たまたま森で拾った鞄(かばん)に──このあたりは少しご都合主義的な展開ではあるのですが──、プルタルコスの『英雄伝』や、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』、ミルトンの『失楽園』が入っていたのです。怪物はそれらを熱心に読み、自分なりの解釈をして、知識と思考能力を高めていきます。なかでも『若きウェルテルの悩み』には、心を揺さぶられます。主人公が失意と憂鬱(ゆううつ)のうちに自殺の道を選ぶという事の顚末(てんまつ)に、自身の境遇を重ね、どこかで共感したのかもしれません。
死と自殺について論じた部分は、おれを驚きの気持ちでいっぱいにした。自殺の是非については立ち入るつもりはなかったが、主人公の考えに同調して、彼の死に、なぜとは知らず涙を流した。 (第15章)
なんと、怪物は泣くのです。小説の主人公に心を寄せて泣く。これほど人間的で、感受性があり、高い知能を持つ存在であることは、ぜひ覚えておいていただきたいと思います。映画では、まずこのような怪物の描写はなされないでしょう。
これほどの知性と感受性を持つ怪物ですから、当然ある疑問に行き着きます。それは、「自分はいったい何者なのか」という、生存そのものへの問いです。
■『NHK100分de名著 メアリ・シェリー フランケンシュタイン』より
科学者ヴィクター・フランケンシュタインは怪物に命を与えながら、そのあまりの醜さに恐れをなし、捨てて逃げてしまう。怪物は森の中で生活しながら、徐々にこの世で生きていくために必要な知識を習得していくが、原作では、怪物が人間の思考法や習慣を学んでいくくだりは、怪物自身を語り手として綴られる。
原作を読むことでしか知ることのできない怪物の人間的な面と知性を、京都大学大学院教授の廣野由美子(ひろの・ゆみこ)氏が解説する。
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怪物はいわば捨てられた子供のような立場にありました。「おれは哀れで、寄る辺なく、惨(みじ)めだった」(11章)と述懐しますが、ここでは見捨てられた存在であることの哀しみを吐露(とろ)しているとも読めます。怪物は最初から殺人鬼だったわけではなく、傷つきやすい子供のような無垢(むく)な性質を具(そな)えていたのです。
生まれて間もないころの経験を語る怪物の言葉が、斬新な効果を発していることは、注目に値します。怪物は、目にする事物を見慣れないものとして、新鮮な感覚で捉えて表現するのです。たとえば、暗闇は「薄黒い不透明な固まり」であり、あるいは月の光は「木々の間から昇って来る光った形のもの」と示されます。これは、怪物が暗闇や月という概念をいまだ知らず、言葉に先立ってそれ自体を体験したときの感覚を表していて、ロシア・フォルマリズムの言語学者ヴィクトル・シクロフスキーがいう「異化」作用そのものです。通常慣れ親しんだ言語表現がいったん留保され、認識の過程も含めた生々しい感覚で事象が表現されることで、私たちもまた日常的なものを新鮮に捉え直すことができるわけです。
とりわけ、「火」の概念を獲得したところは面白いので引用します。
ある日、寒さにこごえていると、浮浪者が残していった火を見つけ、その暖かさに、おれは嬉しさでいっぱいになった。喜びのあまり、燃えている残り火に手を突っ込んだが、痛さに叫び声をあげて、すぐさま手を引っ込めた。同じひとつの原因が、これほど正反対の結果をもたらすとは、なんて不思議なのだろうと思った。(……)火が熱だけではなくて明かりにもなるとわかって、おれは嬉しくなった。それに、火というものを発見したことは、食べ物にも役立った。旅人が食べ残したもののなかに焼いたものがあり、木から採った生(なま)の実よりも味がよいことがわかったのだ。 (第11章)
怪物は、火が暖かさと同時に、手に触れれば痛みを与える両義的なものだと知ります。また、火を絶やさないように工夫するなかで、「これは自分のもの」という所有の感覚を覚え、食べ物に対しての火の有用性にも気づいていきます。焼くとイチゴは台無しになるが、木の実や根は美味しくなる、というように。こうした怪物の語りは、火に関する当たり前のことを、あらためて「ああ、そういうものかもしれない」と考えさせてくれる点で、まさに「異化」のはたらきを及ぼすのです。
怪物の、子供のような純真さが最も際立つのが、隣人であるド・ラセー一家に対して憧れを募らせるところでしょう。
娘は家の片づけをしていたが、間もなく引き出しから何かを取り出し、手作業を始めて、老人の傍らに腰かけた。老人は、道具を手に取って奏(かな)ではじめ、ツグミやナイチンゲールの鳴き声よりも甘い音を出した。それは、これまでに美しいものを見たことがない自分のような哀れな者にとってさえ、うっとりとするような光景だった。(……)おれは奇妙な圧倒されるような感覚を覚えた。それは、空腹や寒さ、暖かさや食べ物からも、いまだ味わったことのない、痛みと喜びの混ざり合ったものだった。この感情に耐えきれず、おれは思わず窓から身を引いた。 (第11章)
鳥の鳴き声よりも甘い音とは、音楽のことです。道具とは、すなわち楽器。人間は音楽に感動することができますが、怪物もまた、この光景を見ることで初めて音楽というものを知り、家族の暖かさを知るのです。私たちがもし、ド・ラセー一家を見かけたとしても、たんに貧しい普通の人々がいると思うだけかもしれません。しかし怪物の目には、家族間の愛情やその穏やかな生活ぶりがこのうえなく美しく、高貴なものとして映ったのでした。
この感動は、怪物の一人称という語りを通じて語られるからこそ、伝わってくるのでしょう。他の登場人物のフィルターをとおした一人称の視点や、外部から客観的に事態を認識する三人称の視点にはない、切々と直接訴えかけてくる効果が、ここには表れているのだと考えられます。
怪物は、彼らが醸(かも)し出す幸福のオーラに憧れを抱きます。夜中に薪(まき)を運んだり、雪かきをしたりと、一家のために姿を隠して働くことも厭(いと)いません。親しくなりたいと願い、どのようにすれば自分を受け入れてくれるだろうかと夢想までします。
そうした生活をつづけるうちに、怪物は書物を読むようになります。たまたま森で拾った鞄(かばん)に──このあたりは少しご都合主義的な展開ではあるのですが──、プルタルコスの『英雄伝』や、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』、ミルトンの『失楽園』が入っていたのです。怪物はそれらを熱心に読み、自分なりの解釈をして、知識と思考能力を高めていきます。なかでも『若きウェルテルの悩み』には、心を揺さぶられます。主人公が失意と憂鬱(ゆううつ)のうちに自殺の道を選ぶという事の顚末(てんまつ)に、自身の境遇を重ね、どこかで共感したのかもしれません。
死と自殺について論じた部分は、おれを驚きの気持ちでいっぱいにした。自殺の是非については立ち入るつもりはなかったが、主人公の考えに同調して、彼の死に、なぜとは知らず涙を流した。 (第15章)
なんと、怪物は泣くのです。小説の主人公に心を寄せて泣く。これほど人間的で、感受性があり、高い知能を持つ存在であることは、ぜひ覚えておいていただきたいと思います。映画では、まずこのような怪物の描写はなされないでしょう。
これほどの知性と感受性を持つ怪物ですから、当然ある疑問に行き着きます。それは、「自分はいったい何者なのか」という、生存そのものへの問いです。
■『NHK100分de名著 メアリ・シェリー フランケンシュタイン』より
- 『メアリ・シェリー『フランケンシュタイン』 2015年2月 (100分 de 名著)』
- NHK出版 / 566円(税込)
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