岡倉天心の知られざる姿がそこに――晩年と最後の恋
- 茨城県五浦の岡倉天心旧邸敷地内に建てられた「亜細亜ハ一なり」の石碑。天心の著書『東洋の理想』の冒頭の言葉「ASIA is one」を邦訳したもの。揮毫は横山大観。
文部官僚として明治期の日本の美術行政を主導し、後に拠点をアメリカに移してからは、広く欧米世界に向けて伝統東洋文明のあり方を説くことに注力した岡倉天心(おかくら・てんしん)。著作『茶の本』に見る力強い筆致や、ぶれることのない確固とした持論からは英雄的な人物像が浮かぶが、ある女性に宛てた手紙には、誰にも見せたことにない天心の姿が投影されていた。東京女子大学教授の大久保喬樹(おおくぼ・たかき)氏が天心の知られざる晩年を語る。
* * *
1912年、天心は最後のボストン勤務となるアメリカ行きのため、横浜を出港して経由地のインドに向かいました。上海、香港、シンガポールを経て、9月中旬にカルカッタ(現在のコルカタ)に到着すると、天心は詩人ラビンドナラート・タゴールの甥で旧知のスレンドラナート・タゴールに迎えられ、その家の客となります。そこで出会ったのが、プリヤンバダ・デーヴィー・バネルジー夫人。天心が生涯最後の運命的な恋におちた女性です。
バネルジー夫人は、天心より9歳年下でこのとき41歳。ベンガル地方の名家出身で、タゴールの遠縁にあたる未亡人でした。また、彼女は生涯に五冊の詩集を出した詩人でもありました。このときの天心のインド滞在は一か月弱の短いもので、ゆっくりふたりきりの時間をもつようなことは難しかったと思われます。しかし、天心がインドを離れたあと、ふたりは文通を通じて急速に接近していったのです。
この、天心とバネルジー夫人が交わした手紙のやりとりは、長らく埋もれて知られていませんでしたが、第二次世界大戦後、まずインドにおいて、バネルジー夫人の遺品中に天心からの来信19通が、ついで、日本において、天心の弟由三郎の手元に保管されていた夫人から天心あての来信13通が、それぞれ発見され、大きな反響を呼び起こしました。というのも、そこには、夫人に対し赤裸々に自分の弱さをさらけ出す、天心の知られざる姿があったからです。年齢ではすでに50歳に達しようとし、これまで英雄的といってよいような行動力、指導力でさまざまな事業を成し遂げ、人々を率いてきた天心が、そこでは手放しで泣き叫び、愛と保護を求めてもだえていたのです。
天心が、このように手紙の中で自分の気持ちを吐露(とろ)した背景には、そのころ急速に悪化しつつあった自身の健康状態の影響もあったと思われます。ボストンでの勤務を続けることが難しくなった天心は、帰国を決意し、1913年4月に日本に到着すると、五浦での療養生活に入りました。そして、六角堂から眼前に広がる太平洋を眺めながら、バネルジー夫人に手紙を書き送るのです。日本に戻ってから最初の便りでは、次のように自分の様子を伝えています。
私は、海辺に座って、一日中、海が逆巻き、波立つのを眺めています。いつか海霧の中からあなたが立ちあらわれてこないかと思いながら。いつか、あなたは、もっと東の方においでになりませんか――中国へ──マレー海峡へ──ビルマへ。ラングーンなどカルカッタから石を放り投げるほどの距離にすぎないではありませんか。空しい、空しい夢! でも、なんと甘美な夢か。
こうした海への思いは、五浦に戻ってからの天心の手紙にはくりかえしあらわれるものです。天心は、小船に乗った自分を港(バネルジー夫人)にたどり着かせてくれる風が吹かないものかと願う詩を書いたり、ふたりの精霊が太平洋の真ん中で出会う様を夢想する手紙を書いたりもしています。五浦で太平洋の大海原を前にして、天心は、この海こそが、国境とか国際情勢とかの人為的な障壁を越えて直接的な精神の交流を可能にし、まさにアジアの一体性を実現する自然の場であることを実感したのでしょう。五浦は決してアクセスのよい場所ではありませんが、実際に行ってみると、東京などにいるよりもむしろ、インドやアメリカとダイレクトにコミュニケーションできるという彼が得た感覚を、いまでも追体験することができます。
1913年8月、いよいよ天心に最期の時が近づいてきました。そのとき五浦から天心が送った手紙には、「くりかえし、くりかえしペンをとりあげましたが、驚くことに、何も書くべきことがありません」という一行に始まる、死に直面して呆然としているような思いがつづられています。その十数日後、天心は家族に付き添われて新潟県赤倉の山荘に移ります。そして、その病床から最後の手紙をバネルジー夫人に書き送りました。ここで初めて、天心はそれまで隠してきた病状を率直に打ち明けたうえで、死を受け入れた自分のいまの思いを次のように記すのです。
これまであんなに頑健だった私が、やっと、生きることの喜びを味わい始めたその時に、こうして病に倒れねばならないというのは、なんと奇妙なめぐりあわせでしょう。きっと、若い時に、野蛮な無茶ばかりしてきた罰があたったのでしょう。しかし、私は宇宙と全くうまくやっており、宇宙からこの頃与えられるものに対して感謝、そう、大変感謝しています。
私は本当に満足しており、暴れだしたいくらい幸せです。この部屋まで入り込んできて、枕のまわりで渦巻いている雲に向かって笑いかけるほどです。
8月24日、天心は腎臓病に心臓病を併発、29日、さらに尿毒症をも発して重体に陥ります。急をきいて東京から弟由三郎、弟子の横山大観、下村観山らが駆けつけましたが、そのまま、9月2日早朝、天心は五十年の生涯を閉じました。翌日、家族や弟子たちに護られて東京に戻る遺骸をおさめた棺は、最後は花こそが私たちとともにあるとした天心の言葉をなぞるように、赤倉の山に咲き乱れる秋の野花で覆われていたと言います。
■『NHK100分de名著 岡倉天心 茶の本』より
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1912年、天心は最後のボストン勤務となるアメリカ行きのため、横浜を出港して経由地のインドに向かいました。上海、香港、シンガポールを経て、9月中旬にカルカッタ(現在のコルカタ)に到着すると、天心は詩人ラビンドナラート・タゴールの甥で旧知のスレンドラナート・タゴールに迎えられ、その家の客となります。そこで出会ったのが、プリヤンバダ・デーヴィー・バネルジー夫人。天心が生涯最後の運命的な恋におちた女性です。
バネルジー夫人は、天心より9歳年下でこのとき41歳。ベンガル地方の名家出身で、タゴールの遠縁にあたる未亡人でした。また、彼女は生涯に五冊の詩集を出した詩人でもありました。このときの天心のインド滞在は一か月弱の短いもので、ゆっくりふたりきりの時間をもつようなことは難しかったと思われます。しかし、天心がインドを離れたあと、ふたりは文通を通じて急速に接近していったのです。
この、天心とバネルジー夫人が交わした手紙のやりとりは、長らく埋もれて知られていませんでしたが、第二次世界大戦後、まずインドにおいて、バネルジー夫人の遺品中に天心からの来信19通が、ついで、日本において、天心の弟由三郎の手元に保管されていた夫人から天心あての来信13通が、それぞれ発見され、大きな反響を呼び起こしました。というのも、そこには、夫人に対し赤裸々に自分の弱さをさらけ出す、天心の知られざる姿があったからです。年齢ではすでに50歳に達しようとし、これまで英雄的といってよいような行動力、指導力でさまざまな事業を成し遂げ、人々を率いてきた天心が、そこでは手放しで泣き叫び、愛と保護を求めてもだえていたのです。
天心が、このように手紙の中で自分の気持ちを吐露(とろ)した背景には、そのころ急速に悪化しつつあった自身の健康状態の影響もあったと思われます。ボストンでの勤務を続けることが難しくなった天心は、帰国を決意し、1913年4月に日本に到着すると、五浦での療養生活に入りました。そして、六角堂から眼前に広がる太平洋を眺めながら、バネルジー夫人に手紙を書き送るのです。日本に戻ってから最初の便りでは、次のように自分の様子を伝えています。
私は、海辺に座って、一日中、海が逆巻き、波立つのを眺めています。いつか海霧の中からあなたが立ちあらわれてこないかと思いながら。いつか、あなたは、もっと東の方においでになりませんか――中国へ──マレー海峡へ──ビルマへ。ラングーンなどカルカッタから石を放り投げるほどの距離にすぎないではありませんか。空しい、空しい夢! でも、なんと甘美な夢か。
こうした海への思いは、五浦に戻ってからの天心の手紙にはくりかえしあらわれるものです。天心は、小船に乗った自分を港(バネルジー夫人)にたどり着かせてくれる風が吹かないものかと願う詩を書いたり、ふたりの精霊が太平洋の真ん中で出会う様を夢想する手紙を書いたりもしています。五浦で太平洋の大海原を前にして、天心は、この海こそが、国境とか国際情勢とかの人為的な障壁を越えて直接的な精神の交流を可能にし、まさにアジアの一体性を実現する自然の場であることを実感したのでしょう。五浦は決してアクセスのよい場所ではありませんが、実際に行ってみると、東京などにいるよりもむしろ、インドやアメリカとダイレクトにコミュニケーションできるという彼が得た感覚を、いまでも追体験することができます。
1913年8月、いよいよ天心に最期の時が近づいてきました。そのとき五浦から天心が送った手紙には、「くりかえし、くりかえしペンをとりあげましたが、驚くことに、何も書くべきことがありません」という一行に始まる、死に直面して呆然としているような思いがつづられています。その十数日後、天心は家族に付き添われて新潟県赤倉の山荘に移ります。そして、その病床から最後の手紙をバネルジー夫人に書き送りました。ここで初めて、天心はそれまで隠してきた病状を率直に打ち明けたうえで、死を受け入れた自分のいまの思いを次のように記すのです。
これまであんなに頑健だった私が、やっと、生きることの喜びを味わい始めたその時に、こうして病に倒れねばならないというのは、なんと奇妙なめぐりあわせでしょう。きっと、若い時に、野蛮な無茶ばかりしてきた罰があたったのでしょう。しかし、私は宇宙と全くうまくやっており、宇宙からこの頃与えられるものに対して感謝、そう、大変感謝しています。
私は本当に満足しており、暴れだしたいくらい幸せです。この部屋まで入り込んできて、枕のまわりで渦巻いている雲に向かって笑いかけるほどです。
8月24日、天心は腎臓病に心臓病を併発、29日、さらに尿毒症をも発して重体に陥ります。急をきいて東京から弟由三郎、弟子の横山大観、下村観山らが駆けつけましたが、そのまま、9月2日早朝、天心は五十年の生涯を閉じました。翌日、家族や弟子たちに護られて東京に戻る遺骸をおさめた棺は、最後は花こそが私たちとともにあるとした天心の言葉をなぞるように、赤倉の山に咲き乱れる秋の野花で覆われていたと言います。
■『NHK100分de名著 岡倉天心 茶の本』より
- 『岡倉天心『茶の本』 2015年1月 (100分 de 名著)』
- NHK出版 / 566円(税込)
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