誤解と孤立乗り越え……未来を見据えた岡倉天心の思想
- 茨城県五浦の岡倉天心旧邸敷地内に建てられた「亜細亜ハ一なり」の石碑。天心の著書『東洋の理想』の冒頭の言葉「ASIA is one」を邦訳したもの。揮毫は横山大観。
『茶の本』は、明治時代に活躍した美術運動の指導者、文明思想家である岡倉天心(おかくら・てんしん)が、その後半生にアメリカに渡り、欧米の読者に向けて英語で執筆した日本文化論である。天心という人物、そして彼が『茶の本』を執筆するに至った背景を、東京女子大学教授の大久保喬樹(おおくぼ・たかき)氏が解説する。
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天心は、茶には日本文化および伝統的な東洋文明の精神が凝縮されていると考え、茶の歴史や、その背景にある哲学、茶が生み出した芸術や美意識などさまざまなテーマを通して、日本文化および伝統的東洋文明の根底に流れる世界観がどのようなものであるかを説いています。明治時代と言えば、文明開化という言葉にも象徴されるように、日本が欧米の進んだ(と考えられていた)文化や技術、制度などを熱心に取り入れようとしていた時代です。その時代にあって、アメリカで日本の伝統文化を説く本が出版されていたとは、意外に思う方もいらっしゃるかもしれません。
『茶の本』の著者である岡倉天心は、幕末の開港地横浜に生まれ、幼いころから英語を母語のように習得したいわゆるバイリンガルでした。一方で、漢学や仏教など伝統日本文化も身につけ、東京大学で第一期生として学んだあとは文部官僚となり、強いカリスマ性をもって明治期の日本の美術行政を主導しました。そこで天心が特に力を注いだのが、当時は文明開化の勢いに押され、衰えかけていた伝統日本美術を復興再生し革新させることでした。天心は、日本の伝統美術の精神性の高さを早くから見抜いていたのです。しかし、西欧化一辺倒の時代にあってそうした天心の考えはなかなか理解されず、次第に孤立していきます。そして、ついに日本での活動に見切りをつけ、拠点をアメリカに移します。以後、天心はボストン美術館の東洋美術部門の責任者として古美術収集活動などの仕事に従事するとともに、広く欧米世界に向かって自分の理想とする伝統東洋文明のありかたを説くことに力を注ぎました。その集大成が、『茶の本』です。
『茶の本』は、近代欧米の物質主義的文化に対して、東洋の伝統的な精神文化の奥義を説きつくす、天心の文明思想のエッセンスを示す一冊です。しかし日本においては、天心自身と同様、なかなか正当に評価される機会に恵まれなかった本でもあると言えます。というのも、さきほども触れたように、いまから一世紀以上前の明治社会においては、近代化、西欧化路線が主流であり、その路線に逆行する伝統的東洋文明を理想とするような本は、時代遅れで反動的だと見なされることが多かったからです。さらに、天心の死後、日本がアジアへの侵略路線をとるようになると、その思想的根拠として、アジアの団結と再生をうたった天心の言葉がその本意を離れてさかんに使われたため、戦後はその反動で天心はファシストとして糾弾されます。
しかし、そうした誤解を乗り越え、今日になってようやく、天心の思想の本質が理解される時期を迎えているように思います。天心は、彼が生きた当時の日本においてはその活動や思想が十分理解されず、孤立しがちでした。しかし、一世紀以上経った現在からふりかえってみると逆に、天心の方こそが、時代に先んじた存在だったと言うことができます。当時の多くの日本人がもっぱらその時代の日本という限られた視野から近視眼的なものの見方しかしていなかったのに対して、天心ははるかに広い視野──さまざまな文明から成り立つ世界全体と、数千年におよぶ歴史の流れ全体を見据えた視野──から大局的なものの見方をしていたのであり、そのうえで、この近代化、西欧化の路線には限界があり、その限界を乗り越えるには伝統的東洋文明理想に還ることが不可欠だと見なしたのです。その意味で、天心のこうした思想は、単なる復古思想ではなく、未来を見据えた思想だったのです。
■『NHK100分de名著 岡倉天心 茶の本』より
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天心は、茶には日本文化および伝統的な東洋文明の精神が凝縮されていると考え、茶の歴史や、その背景にある哲学、茶が生み出した芸術や美意識などさまざまなテーマを通して、日本文化および伝統的東洋文明の根底に流れる世界観がどのようなものであるかを説いています。明治時代と言えば、文明開化という言葉にも象徴されるように、日本が欧米の進んだ(と考えられていた)文化や技術、制度などを熱心に取り入れようとしていた時代です。その時代にあって、アメリカで日本の伝統文化を説く本が出版されていたとは、意外に思う方もいらっしゃるかもしれません。
『茶の本』の著者である岡倉天心は、幕末の開港地横浜に生まれ、幼いころから英語を母語のように習得したいわゆるバイリンガルでした。一方で、漢学や仏教など伝統日本文化も身につけ、東京大学で第一期生として学んだあとは文部官僚となり、強いカリスマ性をもって明治期の日本の美術行政を主導しました。そこで天心が特に力を注いだのが、当時は文明開化の勢いに押され、衰えかけていた伝統日本美術を復興再生し革新させることでした。天心は、日本の伝統美術の精神性の高さを早くから見抜いていたのです。しかし、西欧化一辺倒の時代にあってそうした天心の考えはなかなか理解されず、次第に孤立していきます。そして、ついに日本での活動に見切りをつけ、拠点をアメリカに移します。以後、天心はボストン美術館の東洋美術部門の責任者として古美術収集活動などの仕事に従事するとともに、広く欧米世界に向かって自分の理想とする伝統東洋文明のありかたを説くことに力を注ぎました。その集大成が、『茶の本』です。
『茶の本』は、近代欧米の物質主義的文化に対して、東洋の伝統的な精神文化の奥義を説きつくす、天心の文明思想のエッセンスを示す一冊です。しかし日本においては、天心自身と同様、なかなか正当に評価される機会に恵まれなかった本でもあると言えます。というのも、さきほども触れたように、いまから一世紀以上前の明治社会においては、近代化、西欧化路線が主流であり、その路線に逆行する伝統的東洋文明を理想とするような本は、時代遅れで反動的だと見なされることが多かったからです。さらに、天心の死後、日本がアジアへの侵略路線をとるようになると、その思想的根拠として、アジアの団結と再生をうたった天心の言葉がその本意を離れてさかんに使われたため、戦後はその反動で天心はファシストとして糾弾されます。
しかし、そうした誤解を乗り越え、今日になってようやく、天心の思想の本質が理解される時期を迎えているように思います。天心は、彼が生きた当時の日本においてはその活動や思想が十分理解されず、孤立しがちでした。しかし、一世紀以上経った現在からふりかえってみると逆に、天心の方こそが、時代に先んじた存在だったと言うことができます。当時の多くの日本人がもっぱらその時代の日本という限られた視野から近視眼的なものの見方しかしていなかったのに対して、天心ははるかに広い視野──さまざまな文明から成り立つ世界全体と、数千年におよぶ歴史の流れ全体を見据えた視野──から大局的なものの見方をしていたのであり、そのうえで、この近代化、西欧化の路線には限界があり、その限界を乗り越えるには伝統的東洋文明理想に還ることが不可欠だと見なしたのです。その意味で、天心のこうした思想は、単なる復古思想ではなく、未来を見据えた思想だったのです。
■『NHK100分de名著 岡倉天心 茶の本』より
- 『岡倉天心『茶の本』 2015年1月 (100分 de 名著)』
- NHK出版 / 566円(税込)
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