老いを比較する
ボーヴォワールは『老い』の執筆にあたり、時代も分野も異なるさまざまな文献やデータを大量に収集・検討しました。上巻の「はじめに」では、「老いについての研究はあらゆる分野にわたって行われることを目指さねばならない」と述べています。老人の地位が高い社会もあれば低い社会もあることからわかるように、時代や地域、社会構造、社会的属性によって、老いの扱われ方は異なります。老いを比較検討することの重要性について、社会学者で、東京大学名誉教授の上野千鶴子(うえの・ちづこ)さんにお聞きしました。
* * *
『老い』の目的は「今日のわれわれの社会における老人たちの境涯に照明をあてること」であるが、老いは生物学的には「超歴史的事実」(どの時代に生まれても人は老いる)だとしても、その運命は「社会的背景(コンテクスト)にしたがって多種多様に生きられる」ため、歴史を参照しないわけにはいかないと言います。
われわれの社会について判断を下すためには、それが選択した解決方法を、さまざまな場所や時代において他の社会が採用した解決方法と比較対照する必要がある。この比較によってこそ、老人の境涯がもつ不可避的なものをとり出し、どの程度までまたいかなる代価を払えばその困苦を和らげることができるかを考え、したがってわれわれがそのなかで生きている体制の責任がその点いかなるものであるかを明らかにすることができるであろう。
ボーヴォワールは、第二章「未開社会における老い」および第三章「歴史社会における老い」のなかで、前近代の世界の諸地域・文化における老いを詳細に比較検討しています。こうしたアプローチは、学問の世界では比較老年学と呼ばれます。
第二章を書くにあたり、ボーヴォワールはフランスの社会人類学研究所が所蔵する「ヒューマン・リレーションズ・エリア・ファイルズ」(HRAF、日本語では「フラフ」と呼び習わされている)を参照したと述べています。これはジョージ・P・マードックというアメリカの人類学者が1949年に編集を始めた大部のドキュメントなのですが、実際に読み込んだようですね。第二章には、世界のさまざまな民族や部族における老人の地位処遇が列挙されています。例えば、気候が厳しい地域では食料調達が容易でないため、老人への食べ物の分配は優先されず、逆に豊かな自然がある地域では、老人は政治の場で力を持つ、といった興味深い違いが浮き彫りにされています。
ただ、この章の記述には注意が必要です。ボーヴォワールは人類学者ではないため、対象となる民族の規模や地域に統一性を欠き、比較が恣意的である印象があります。またフラフのデータそのものが、本当に正しいかどうかはわかりません。日本の作家、深沢七郎の『楢山節考』に言及するほどの博覧強記ぶりですが、姥(うば)捨てを含めて世界各地で老人を遺棄したり殺したり自殺を強いたりする文化の例は、伝承か現実かは確かめられませんし、そこに当時の欧米の研究者にあったオリエンタリズム的なまなざしがあることは否めません。
しかしながら、時代や地域、社会構造、社会的属性などによって、老いの扱われ方が異なるのは事実です。参考までに、ドナルド・カウギルというアメリカの人類学者がまとめた比較老年学の知見を紹介しておきましょう。
[1]老人の地位は近代化の程度に反比例する〔近代化が進むほど老人の地位が下がる〕
[2]老齢人口の比率が低いほど老人の地位は高くなる
[3]老人の地位は社会の変化の速さに反比例する〔変化が速い社会ほど老人の地位が低い〕
[4]定着社会は老人の地位が高く、移動社会では老人の地位が低い
[5]文字を持たない社会では老人の地位は高い
[6]大家族ほど老人の地位は高い
[7]個人主義化は老人の地位を低下させる
[8]老人が財産を持っているところでは老人の威信がある
(Cowgill, Donald O., A Theory of Aging in Cross-Cultural Perspective. 1972.より訳出)
当たり前のことですが、老人の地位が高い社会もあれば低い社会もある。言い換えれば、若さに価値のある社会と、老いに価値のある社会があることがわかります。
現在では、高齢者に対する「お若いですね」は最高の褒め言葉のように使われていますが、若さに価値があるのは、古さの価値が否定される変化の速い近代社会([3])です。そうでない社会では、むしろ実年齢よりも老けて見える扮装(ふんそう)をして老いの威厳をまとってきました。例えば、ヨーロッパの上流階級の人たちが被った白髪のかつら。日本のちょんまげもその類(たぐい)でしょう。あれは禿げ頭を風俗的に再現したものだと思います。
ボーヴォワールに戻れば、彼女の議論は継(つ)ぎ接(は)ぎではあるものの、結論はカウギルのそれとほぼ重なります。移動する社会、変化する社会、つまり近代化は老人の地位を低めた、と。
加えて、彼女は二つの知見について書いています。一つは、親子関係の厳格さが高齢者の処遇に反映するということ。もう一つは経済格差で、文明社会の裕福な老人は長命だということ。
前者は、子どもを虐待すると親は老いてから仕返しされるということですが、何を虐待とするかは社会によって定義が変わりますから、実証するのはむずかしいでしょう。
後者は大変鋭い知見です。最近、健康疫学という学問のジャンルができて、寿命や健康と経済格差の疫学的関係が指摘されるようになりました。ボーヴォワールはそこにいち早く着目していて、フランスの老年学者が行った調査に言及した上で「ふつう田舎には都会よりも美しい老年が多く存在すると言われているが、事実は、調査されたすべての被験者たちは同じ年齢の裕福なパリ市民より健康ではなかった」と書いています。
かつて、健康格差の指標に経済を持ってくるのはタブーでした。身も蓋もない事実だからです。ところが最近は、そういうことから目を背けるわけにはいかなくなりました。コロナ禍においても、経済階層によって感染率や死亡率が異なるという科学的データがはっきり出ています。ボーヴォワールはこうした事実にも目を向けました。
■『NHK100分de名著 ボーヴォワール 老い』より
* * *
『老い』の目的は「今日のわれわれの社会における老人たちの境涯に照明をあてること」であるが、老いは生物学的には「超歴史的事実」(どの時代に生まれても人は老いる)だとしても、その運命は「社会的背景(コンテクスト)にしたがって多種多様に生きられる」ため、歴史を参照しないわけにはいかないと言います。
われわれの社会について判断を下すためには、それが選択した解決方法を、さまざまな場所や時代において他の社会が採用した解決方法と比較対照する必要がある。この比較によってこそ、老人の境涯がもつ不可避的なものをとり出し、どの程度までまたいかなる代価を払えばその困苦を和らげることができるかを考え、したがってわれわれがそのなかで生きている体制の責任がその点いかなるものであるかを明らかにすることができるであろう。
ボーヴォワールは、第二章「未開社会における老い」および第三章「歴史社会における老い」のなかで、前近代の世界の諸地域・文化における老いを詳細に比較検討しています。こうしたアプローチは、学問の世界では比較老年学と呼ばれます。
第二章を書くにあたり、ボーヴォワールはフランスの社会人類学研究所が所蔵する「ヒューマン・リレーションズ・エリア・ファイルズ」(HRAF、日本語では「フラフ」と呼び習わされている)を参照したと述べています。これはジョージ・P・マードックというアメリカの人類学者が1949年に編集を始めた大部のドキュメントなのですが、実際に読み込んだようですね。第二章には、世界のさまざまな民族や部族における老人の地位処遇が列挙されています。例えば、気候が厳しい地域では食料調達が容易でないため、老人への食べ物の分配は優先されず、逆に豊かな自然がある地域では、老人は政治の場で力を持つ、といった興味深い違いが浮き彫りにされています。
ただ、この章の記述には注意が必要です。ボーヴォワールは人類学者ではないため、対象となる民族の規模や地域に統一性を欠き、比較が恣意的である印象があります。またフラフのデータそのものが、本当に正しいかどうかはわかりません。日本の作家、深沢七郎の『楢山節考』に言及するほどの博覧強記ぶりですが、姥(うば)捨てを含めて世界各地で老人を遺棄したり殺したり自殺を強いたりする文化の例は、伝承か現実かは確かめられませんし、そこに当時の欧米の研究者にあったオリエンタリズム的なまなざしがあることは否めません。
しかしながら、時代や地域、社会構造、社会的属性などによって、老いの扱われ方が異なるのは事実です。参考までに、ドナルド・カウギルというアメリカの人類学者がまとめた比較老年学の知見を紹介しておきましょう。
[1]老人の地位は近代化の程度に反比例する〔近代化が進むほど老人の地位が下がる〕
[2]老齢人口の比率が低いほど老人の地位は高くなる
[3]老人の地位は社会の変化の速さに反比例する〔変化が速い社会ほど老人の地位が低い〕
[4]定着社会は老人の地位が高く、移動社会では老人の地位が低い
[5]文字を持たない社会では老人の地位は高い
[6]大家族ほど老人の地位は高い
[7]個人主義化は老人の地位を低下させる
[8]老人が財産を持っているところでは老人の威信がある
(Cowgill, Donald O., A Theory of Aging in Cross-Cultural Perspective. 1972.より訳出)
当たり前のことですが、老人の地位が高い社会もあれば低い社会もある。言い換えれば、若さに価値のある社会と、老いに価値のある社会があることがわかります。
現在では、高齢者に対する「お若いですね」は最高の褒め言葉のように使われていますが、若さに価値があるのは、古さの価値が否定される変化の速い近代社会([3])です。そうでない社会では、むしろ実年齢よりも老けて見える扮装(ふんそう)をして老いの威厳をまとってきました。例えば、ヨーロッパの上流階級の人たちが被った白髪のかつら。日本のちょんまげもその類(たぐい)でしょう。あれは禿げ頭を風俗的に再現したものだと思います。
ボーヴォワールに戻れば、彼女の議論は継(つ)ぎ接(は)ぎではあるものの、結論はカウギルのそれとほぼ重なります。移動する社会、変化する社会、つまり近代化は老人の地位を低めた、と。
加えて、彼女は二つの知見について書いています。一つは、親子関係の厳格さが高齢者の処遇に反映するということ。もう一つは経済格差で、文明社会の裕福な老人は長命だということ。
前者は、子どもを虐待すると親は老いてから仕返しされるということですが、何を虐待とするかは社会によって定義が変わりますから、実証するのはむずかしいでしょう。
後者は大変鋭い知見です。最近、健康疫学という学問のジャンルができて、寿命や健康と経済格差の疫学的関係が指摘されるようになりました。ボーヴォワールはそこにいち早く着目していて、フランスの老年学者が行った調査に言及した上で「ふつう田舎には都会よりも美しい老年が多く存在すると言われているが、事実は、調査されたすべての被験者たちは同じ年齢の裕福なパリ市民より健康ではなかった」と書いています。
かつて、健康格差の指標に経済を持ってくるのはタブーでした。身も蓋もない事実だからです。ところが最近は、そういうことから目を背けるわけにはいかなくなりました。コロナ禍においても、経済階層によって感染率や死亡率が異なるという科学的データがはっきり出ています。ボーヴォワールはこうした事実にも目を向けました。
■『NHK100分de名著 ボーヴォワール 老い』より
- 『ボーヴォワール『老い』 2021年7月 (NHK100分de名著)』
- 上野 千鶴子
- NHK出版
- 599円(税込)
- >> Amazon.co.jp
- >> HonyaClub.com
- >> HMV&BOOKS