『モモ』の語り出し「むかし、むかし」が意味すること

『モモ』は、ドイツの児童文学作家ミヒャエル・エンデが1973年に発表したファンタジー作品です。76年には邦訳が出版され、現在までに累計発行部数が341万部を超える人気を獲得しました。多くの児童文学作品に共通する「むかし、むかし」という語り出しで始まりますが、『モモ』の場合はその意味合いが違うといいます。京都大学教授、臨床心理学者の河合俊雄(かわい・としお)さんが、冒頭部分を読み解きます。

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この作品はモモという名前の不思議な女の子が主人公です。物語はこんなふうに始まります。
むかし、むかし、人間がまだいまとはまるっきりちがうことばで話していたころにも、あたたかな国々にはもうすでに、りっぱな大都市がありました。

(1章 大きな都会と小さな少女)



「むかし、むかし」という語り出しは、世界に共通する形式です。読者は「そうか、昔話が始まるのか」と思うわけですが、実はここに注意が必要です。というのも、『モモ』のドイツ語の原文を見てみると、「In alten, alten Zeiten」(すごくむかし、むかしの時代のことです)とあるからです。
ドイツ語の昔話はたいてい「Es war einmal」で始まります。これは英語の「Once upon a time」と同じ意味で、「かつて、あったとさ」といったニュアンスです。「かつて」は、いつの時代と特定されることのない時代を表しますね。言い換えれば非時間的な時間であり、常に存在する時間ともいえるでしょう。ローマ時代のサルスティウスは神話について「これらのことは決して起こったことがないが、いつも存在している」という有名な言葉を残していますが、昔話もこれと同じです。つまり昔話は、決して起こったことがないけれども、常に存在しているリアリティを持った物語なのです。だからこそ昔話はいつ読んでもおもしろいのです。
ところが『モモ』は違うわけです。「はるかむかしのことです」といっている。なぜかというと、このあとで「そして今は」と話が続くからです。つまり、最初の「むかし」は現在とはっきり区別された時代なのです。なぜ区別されているのかというと、この物語ではいにしえの時と現在が対比されているからです。この点は重要です。
冒頭の一文に続いて、昔の大都市の様子が描写されます。宮殿や寺院があり、人々が集う広場があり、大きな円形劇場があった。人々は芝居が大好きだったのです。
そして、舞台のうえで演じられる悲痛なできごとや、こっけいな事件に聞きいっていると、ふしぎなことに、ただの芝居にすぎない舞台上の人生のほうが、じぶんたちの日常の生活よりも真実にちかいのではないかと思えてくるのです。みんなは、このもうひとつの現実に耳をかたむけることを、こよなく愛していました。

(同前)



しかし、劇場のにぎわいも宮殿も今はもうありません。大都市が栄えた時代は過ぎ去ってしまったのです。『モモ』の主要舞台である円形劇場の廃墟は、過去と現在の対比という点で象徴的です。かつてそこで物語が語られ、芝居が演じられた場所は、今は廃墟となっている。さきほどの引用にあった「もうひとつの現実」、すなわち神話や儀式、フィクションの方が実際の生活よりも真実に近いと人々は感じていたが、そんな神話的現実が生きていた時代はもう終わってしまった──。『モモ』はこうした前置きを語ることから始まっています。
■『NHK100分de名著 ミヒャエル・エンデ モモ』より

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ミヒャエル・エンデ『モモ』 2020年8月 (NHK100分de名著)
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河合 俊雄
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