吉本隆明がとらえた国家の成立
エンゲルスは『家族・私有財産・国家の起源』の中で、家族形態の展開から氏族制度の確立、私有財産の形成、そして氏族制度の解体から生ずる国家の形成を、歴史的に跡づけ、国家の本質を「国家は階級対立を制御する必要から生じたのであるから、(略)それは通例、もっとも有力な、経済的に支配する階級の国家である」と規定しました。エンゲルスとはちがうかたちで国家の成立をとらえたのが吉本隆明です。吉本はどのような思索から国家論を展開していったのでしょうか。日本大学危機管理学部教授の先崎彰容(せんざき・あきなか)さんが解説します。
* * *
吉本は「母制論」を、集団婚を否定することからはじめます。エンゲルスは嫉妬からの解放と母権制誕生の背景に、集団婚を想定します。しかし男女が有史以来、嫉妬感情から解放されたことなどないし、また生まれた子供の父母がだれなのかは、彼ら自身はもちろん、部族内ではだれでも知っているはずである。エンゲルスが集団婚を重視するのは、古代の人間関係は原始共産制なのであって、一切の私有がなく男女関係すら共同所有だった理想の共同体を強調したいからでした。またマルクス主義のいわゆる「疎外論」とは、時代が下るにつれて、資本主義を駆動する歯車の一つとなった個人が自主性・主体性を奪われた現代社会をイメージしています。そして、本来の人間性を取り戻そうとする考え方のことです。「疎外論」のこうした古代への憧憬と本来的人間像の恢復とはちがった観点から、吉本は出発しようと試みます。なぜ母権制──当初のかたちは〈母系〉制と呼ばれる── は成立するのか。その際にでてくるキーワードこそ「対幻想」だったのです。
わたしのかんがえでは〈母系〉制の基盤はけっして原始集団婚にもとめられないし、だいいちに原始集団婚の存在というのは、きわめてあやふやであるとおもう。(略)わたしのかんがえでは〈母系〉制の社会とは家族の〈対なる幻想〉が部落の〈共同幻想〉と同致している社会を意味するというのが唯一の確定的な定義であるようにおもえる。
類人猿や動物とちがう共同性(家族)は、集団婚の結果生まれたものではない。したがって、集団婚を出発点に母権制のはじまりと崩壊を辿り、資本主義の誕生に注目し、国家の成り立ちを説くエンゲルスは間違っている。むろん、実際の性交の人数や相手の範囲もまったく国家の成り立ちに関係がない。人間だけが性行為を対象化し、「幻想」の領域に位置づけた時に、はじめて家族が「対幻想」として誕生すると言うのです。
吉本の定義では、対幻想はかなり幅の広い概念です。たとえば対幻想は夫婦にとどまりません。男女が婚姻して夫婦になると、世間とは別の親密な二人の関係をつくるわけで、共同幻想とは対立する関係になります。しかし吉本の対幻想のイメージは、共同幻想(国家)形成のための出発点であり、「同致」するまで広がっていくものだと考えられています。
具体的には、父母から生まれた兄弟姉妹です。彼らは実際の性行為を行うことはないし、また独立して自宅をでる、結婚して所帯を構えるといった仕方で空間的に家族の外にでてしまいます。しかし、どれだけ空間的に広がったとしても彼らは疑似的な性関係をもつのであって、対幻想の関係を維持するのだ、と吉本は言います。「それだから〈母系〉制社会のほんとうの基礎は集団婚にあったのではなく、兄弟と姉妹の〈対なる幻想〉が部落の〈共同幻想〉と同致するまでに〈空間〉的に拡大したことのなかにあったとかんがえることができる」。
吉本にとって、国家成立までの長い道のりは、出発の瞬間からエンゲルスと袂(たもと)を分かっているのです。とりわけ私が驚いたのは、吉本が嫉妬と疑似性的な関係を非常に重視していることです。国家の起源を問い直す作業が、人間関係のうち最も根源的な他人との比較や羨望の感情、さらに男女間の性的な駆け引きをめぐり展開されていることは、国家の本質とはなにかを教えてくれると思ったのです。吉本は人間の本質をそこに見ていたのではないでしょうか。
私たちは、相手への好き嫌いにはじまって、嫉妬はもちろん、相手を敵か味方かに区別しがちです。感情的に押したり引いたりしながら、愚痴や悪口を言って生きています。否、生きるとは他人にまつわる愚痴や悪口、性的な興味を抱き、駆け引きを行う営みのことである──個人はこれくらい、他人との関係性に侵食されているのです。実際の性行為をふくまない心情の伸縮する関わり、幻想上の性関係を、私は「エロス的関係」と呼びたいと思います。
そして最初の他人こそ家族であり兄弟姉妹なのであって、吉本は疑似性的関係を「対幻想」と名づけ、国家や宗教をふくめた「共同幻想」の端緒に位置づけました。他人に対する喜怒哀楽の激しく揺れ動く感情が目に見えないものでありながら、私たちの心の多くの部分を占めていることを思う時、「人間とは幻想を抱く生き物だ」という吉本の主張は、極めて説得的に響いてくるのです。
■『NHK100分de名著 吉本隆明 共同幻想論』より
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吉本は「母制論」を、集団婚を否定することからはじめます。エンゲルスは嫉妬からの解放と母権制誕生の背景に、集団婚を想定します。しかし男女が有史以来、嫉妬感情から解放されたことなどないし、また生まれた子供の父母がだれなのかは、彼ら自身はもちろん、部族内ではだれでも知っているはずである。エンゲルスが集団婚を重視するのは、古代の人間関係は原始共産制なのであって、一切の私有がなく男女関係すら共同所有だった理想の共同体を強調したいからでした。またマルクス主義のいわゆる「疎外論」とは、時代が下るにつれて、資本主義を駆動する歯車の一つとなった個人が自主性・主体性を奪われた現代社会をイメージしています。そして、本来の人間性を取り戻そうとする考え方のことです。「疎外論」のこうした古代への憧憬と本来的人間像の恢復とはちがった観点から、吉本は出発しようと試みます。なぜ母権制──当初のかたちは〈母系〉制と呼ばれる── は成立するのか。その際にでてくるキーワードこそ「対幻想」だったのです。
わたしのかんがえでは〈母系〉制の基盤はけっして原始集団婚にもとめられないし、だいいちに原始集団婚の存在というのは、きわめてあやふやであるとおもう。(略)わたしのかんがえでは〈母系〉制の社会とは家族の〈対なる幻想〉が部落の〈共同幻想〉と同致している社会を意味するというのが唯一の確定的な定義であるようにおもえる。
(「母制論」)
類人猿や動物とちがう共同性(家族)は、集団婚の結果生まれたものではない。したがって、集団婚を出発点に母権制のはじまりと崩壊を辿り、資本主義の誕生に注目し、国家の成り立ちを説くエンゲルスは間違っている。むろん、実際の性交の人数や相手の範囲もまったく国家の成り立ちに関係がない。人間だけが性行為を対象化し、「幻想」の領域に位置づけた時に、はじめて家族が「対幻想」として誕生すると言うのです。
吉本の定義では、対幻想はかなり幅の広い概念です。たとえば対幻想は夫婦にとどまりません。男女が婚姻して夫婦になると、世間とは別の親密な二人の関係をつくるわけで、共同幻想とは対立する関係になります。しかし吉本の対幻想のイメージは、共同幻想(国家)形成のための出発点であり、「同致」するまで広がっていくものだと考えられています。
具体的には、父母から生まれた兄弟姉妹です。彼らは実際の性行為を行うことはないし、また独立して自宅をでる、結婚して所帯を構えるといった仕方で空間的に家族の外にでてしまいます。しかし、どれだけ空間的に広がったとしても彼らは疑似的な性関係をもつのであって、対幻想の関係を維持するのだ、と吉本は言います。「それだから〈母系〉制社会のほんとうの基礎は集団婚にあったのではなく、兄弟と姉妹の〈対なる幻想〉が部落の〈共同幻想〉と同致するまでに〈空間〉的に拡大したことのなかにあったとかんがえることができる」。
吉本にとって、国家成立までの長い道のりは、出発の瞬間からエンゲルスと袂(たもと)を分かっているのです。とりわけ私が驚いたのは、吉本が嫉妬と疑似性的な関係を非常に重視していることです。国家の起源を問い直す作業が、人間関係のうち最も根源的な他人との比較や羨望の感情、さらに男女間の性的な駆け引きをめぐり展開されていることは、国家の本質とはなにかを教えてくれると思ったのです。吉本は人間の本質をそこに見ていたのではないでしょうか。
私たちは、相手への好き嫌いにはじまって、嫉妬はもちろん、相手を敵か味方かに区別しがちです。感情的に押したり引いたりしながら、愚痴や悪口を言って生きています。否、生きるとは他人にまつわる愚痴や悪口、性的な興味を抱き、駆け引きを行う営みのことである──個人はこれくらい、他人との関係性に侵食されているのです。実際の性行為をふくまない心情の伸縮する関わり、幻想上の性関係を、私は「エロス的関係」と呼びたいと思います。
そして最初の他人こそ家族であり兄弟姉妹なのであって、吉本は疑似性的関係を「対幻想」と名づけ、国家や宗教をふくめた「共同幻想」の端緒に位置づけました。他人に対する喜怒哀楽の激しく揺れ動く感情が目に見えないものでありながら、私たちの心の多くの部分を占めていることを思う時、「人間とは幻想を抱く生き物だ」という吉本の主張は、極めて説得的に響いてくるのです。
■『NHK100分de名著 吉本隆明 共同幻想論』より
- 『吉本隆明『共同幻想論』 2020年7月 (NHK100分de名著)』
- 先崎 彰容
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