吉本隆明が批判したエンゲルスの国家論

一度でも『共同幻想論』に挑戦したことがある方は、この本が『遠野物語』と『古事記』を主要な題材として参照していることをご存じでしょう。しかし実はもう一つ、この本を読んでいくうえで基礎となる文献があります。それがエンゲルス著『家族・私有財産・国家の起源』です。エンゲルスはご存じのとおり、マルクスと協力して共産主義の基礎を築いた思想家です。吉本は、『共同幻想論』の「母制論」以降の部分で、この著作に描かれた国家形成過程をつよく意識し、対幻想を対置することで独自の国家論をつくろうとしたのです。吉本の国家論を理解するために、まずは吉本が批判したエンゲルスの国家論を、日本大学危機管理学部教授の先崎彰容(せんざき・あきなか)さんが解説してくれました。

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人類学者モーガンの『古代社会』とマルクス『古代社会ノート』を参考にエンゲルスは、家族の考察を行います。今日、私たちが当然のことと考える一夫一婦制は、実はかなり後になってからの婚姻形態であり、いくつかの階梯(かいてい)を経て形成されたものにすぎません。類人猿や動物と人間を決定的にわかつのは、人間が集団生活を円滑に行える点にあり、そのためには男性同士が「嫉妬」から解放される必要がありました。そこで編みだされた「集団婚」こそ、もっとも原始的な家族形態です。それは男性の全集団と女性の全集団が互いを全員で「所有」しあう形態であって、要するに、無規律の性交を当然とする社会集団のことをさします。逆に言えば、この段階では近親相姦という考え方はないし、親子兄弟姉妹の間の性交もなんら問題がない。だから嫉妬の感情が生じないというのです。嫉妬という対立感情をもたず、また男女が互いに全員を平等に所有しあうこの家族形態は、「原始共産制的な合同世帯」であり、無規律の性交は異常でも異様でも決してないのです。
次の段階をエンゲルスはモーガンにならって「血縁家族」と呼びます。これは世代間にわかれた家族形態のことで、結果、無制限の性交から親子関係が排除されていく。排除がもう一段進み、兄弟姉妹との性交も禁じられると、「プナルア(親友、仲間)家族」と呼ばれることになります。
この段階までの家族に特徴的なのが「母権制」です。集団婚に典型的ですが、エンゲルスは、子供から見て父親がだれであるかは分からないが、実母がだれであるかは分かるだろうという仮説を立てます。嫉妬のない集団婚である以上、すべての子供を母親がわが子と呼ぶものの、実際には自分が腹を痛めた子供は見分けられるというわけです。
母権制がなぜ重要かと言うと、私有財産と国家の起源に関わるからです。母方による血統の承認は、わが子が母方の氏族に属することを意味し、財産相続でも母方が優位となります。しかし、私有財産が発生すると、この家族形態が壊れ、母子相続よりも父子の関係が重視された結果、資本主義と国家の誕生につながっていくことになるのです。
もう少し、エンゲルスの意見を辿りましょう。「対偶婚家族」から「一夫一婦制家族」への移行期こそ、人類にとって最も劇的な変化の時代でした。家畜の飼育がはじまると富は激増し、家屋や衣類、装飾品にくわえ新たに牛・羊・豚などの財産を生みだします。当初、氏族の共同所有だったこれらの財産は、食料調達とそれに必要な労働手段、すなわち奴隷の持ち主である夫の地位を次第に高め、夫が自らの財産を子供に引き継ごうという衝動を生みだしました。ここに家族における男女関係は逆転し、母権制の解体とともに男性が財産と奴隷、そして女性を従える家族形態、すなわち一夫一婦制家族が生じてくるのです。
今日の常識からすれば、一夫一婦制は一組の男女の恋愛結婚をイメージさせることでしょう。しかしエンゲルスはそうした価値観をきっぱりと否定し、男性が相続人である子供を女性に生ませる強制関係だと指摘します。奴隷制が同時に誕生したのは、女性が家族内で奴隷とおなじ役割を果たすに過ぎないからだとさえ指摘します。「歴史に現われる最初の階級対立は、一夫一婦制における男女の敵対関係の発展と合致し、また最初の階級抑圧は、男性による女性の抑圧と合致する」。あらゆる人間関係を階級対立から読み解くマルクス=エンゲルスにとって、最初に非難されるべきは一夫一婦制の家族だったのです。
ところで、新たな財産を獲得した男たち、たとえば遊牧部族は自らの所有物を隣人と交換しはじめます。とりわけ家畜は、紡糸や織物、武器や手工業製品といった「商品」を交換する際の絶対的な基準にのしあがります。あらゆる商品と交換可能な特権的役割をはたす家畜こそ、今日私たちが使っている「貨幣」誕生の瞬間なのであって、資本主義の原初形態がここに現われる。富める者と貧しい者、自由人と奴隷の差別が生まれ、「原始共産制的世帯共同体」は完全に壊れてしまい、人々の関係は富の獲得競争状態に陥る。土地もまた共同所有を否定され、個々の家族の持ち物になってしまうのです。家族内ではじまった階級対立は、社会のあらゆる場面で利害対立を生みだし、「嫉妬」が席巻する状態になっていきます。その最終的な帰結を、エンゲルスは次のように描きました。
これらの対立物が、すなわち抗争しあう経済的利害をもつ諸階級が、無益な闘争のうちに自分自身と社会とを消尽させないためには、外見上社会の上に立ってこの抗争を和らげ、これを「秩序」の枠内に保つべき権力が必要となった。そして、社会からでてきながらも、社会の上に立ち、社会からますます疎外してゆくこの権力が、国家なのである。

(岩波文庫『家族・私有財産・国家の起源』 戸原四郎訳)



かくして、エンゲルスは「家族・私有財産・国家の起源」を明らかにしました。経済的利害による階級闘争を隠蔽するのが国家誕生の理由である。だから国家は、最も経済的に有利な支配階級に奉仕する共同体のことであり、来るべき社会革命を経て否定されるべきだと言うのです。ここには明らかに、経済的理由から権力が発生し国家を誕生させたという論理が見て取れます。エンゲルスのこの著作は、マルクスとの共著『共産党宣言』同様、唯物史観の入門書として絶大な影響力をもちました。以上の国家論にたいし、吉本隆明はどのように対峙したのでしょうか。そして独自の国家論をどう展開していったのでしょうか。
■『NHK100分de名著 吉本隆明 共同幻想論』より

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吉本隆明『共同幻想論』 2020年7月 (NHK100分de名著)
『吉本隆明『共同幻想論』 2020年7月 (NHK100分de名著)』
先崎 彰容
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