魂は死後も生き続けるか? 「真理究極」の探究に終止符を打とうとしたカント

宇宙の果てはどうなっているのか。神は存在するのか。魂は死後も生き続けるのか。そんな真理究極の問いは、どんなに考えても答えは出ないとカントは言いました。答えが出せない理由を徹底的に論じたのが『純粋理性批判』です。この本で、カントが最初に「始末」した問いは「魂の不死」をめぐるものでした。東京医科大学哲学教室教授の西 研(にし・けん)さんが解説します。

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いにしえの時代から、宗教者たちは死後の世界を饒舌(じょうぜつ)に語り、哲学者は人間の魂が死後も生き続けることを証明しようとしてきました。古くはプラトンの『パイドン』が有名ですが、近代のデカルトも、肉体がなくても魂は自律的に存在しうると主張しました。心は非物質的で、不壊不滅であり、時間の流れに関わらず常に同一である──これがデカルトの議論です。
カントは、これを誤謬(ごびゅう)推理(誤った推論)であると一刀両断にします。カント認識論によれば、私たちが合理的に認識し得る対象は、人間の感性が「空間」と「時間」の枠組みで捉えられるものだけです。ですから、自分の内的な感覚によって捉えられるかぎりで「心」について認識することはもちろんできます。「いま私はお腹が痛い」「あの人の前に出ると胸がドキドキする」ということ(内的感覚によって捉えられた自分)はきちんと認識できますし、それを材料として人間の心についての学問をつくることも可能でしょう。
しかし、具体的な心の働きの根底に究極のおおもととして「魂」を想定し、それは肉体が滅びても壊れることはない、つまり不死なのだ、と語ることは、時空から超え出たものを認識しようとしている時点で、そもそも間違った推論だというのです。
ここで気をつけていただきたいのですが、カントは「不死なる魂は存在しない」と主張しているのではありません。心の働きのおおもとにあるかもしれない魂は原理的に認識できませんから、「ある」とも、「ない」ともいえないのです。そういう意味で、いくら議論しても答えは出ない、というのがカントの結論です。
にもかかわらず、なぜ人々は魂の不死を願い、かくも多くの哲学者が不死なる魂の存在証明を試みてきたのでしょうか。これについてカントはとくに論じていませんが、やはり死への不安や恐怖から解放されたかったからでしょう。
死とは何でしょうか。それはこれからやりたいことを奪うものであり、また、親しい人たちとの別離をも意味します。しかも、死には絶対の未知性があります。死後どうなるかということは、生きている間は誰にもわかりません。ですから、人は死を恐れつつ、なんとか死後の世界を知りたいと願い、さまざまに思い描いてきたのではないでしょうか。
キリスト教世界においては、死後の世界に天国があると信じられていますが、これは「不死なる魂」を前提としています。西洋だけではありません。インドでは魂の生まれ変わり(輪廻転生)が信じられてきました。日本のお盆も、死者の魂と交流する機会ですね。人は決して証明できないのに、死後の世界や魂の不死を考え続けてきたのです。
私がカントの議論から連想したのは「自分探し」です。現在の自分は「ほんとうの私」ではない、どこかに眠っているはずの「ほんとうの私」と出会えれば、もっと生き生きと充実して生きられるはずだ──2000年前後の日本では、そんな若者たちの「自分探し」が話題となりましたが、じつはいまも、そんなふうに思っている若者はたくさんいるように思います。
でもなぜ、「ほんとうの私」が欲しくなるのでしょうか? 私が存在している理由、つまり「使命」が与えられれば、何を目指して生きればよいかがわかる、と思えるからでしょう。私自身も若いとき、他者とどう関わり何を目指して生きていけばよいか、悩んでいました。そして哲学書のなかにその答えがあるのではないかと思っていました。
これについての私の結論はこうです。どこかに「ほんとうの私」を求めるのではなく、「どんなことに私は喜びを覚えるか」を自分に問い、そこから生きる方向を見つけていくしか答えはない、と。このことを示唆してくれたのは、カントより一世紀ほど後の哲学者フリードリヒ・ニーチェでした。
■『NHK100分 de 名著 カント 純粋理性批判』より

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