『ハイジ』の舞台と歴史的背景

画/パウル・ハイ 出典/J・シュピーリ作、矢川澄子訳 『ハイジ』 福音館文庫
1880年に『ハイジの修業時代と遍歴時代』という題名で出版された小説が大ヒットし、翌年には続編『ハイジは習ったことを役立てることができる』が出ました。この2部作が今も世界中で愛されている『アルプスの少女ハイジ』です。物語で描かれる人々の言動は、当時の時代背景を色濃く反映させたものとなっています。早稲田大学教授・ドイツ文学者の松永美穂(まつなが・みほ)さんが、冒頭部分を引きながら、『ハイジ』が生まれた19世紀のスイスについて解説します。

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『ハイジ』の物語は、こんな描写から始まります。
マイエンフェルトという名前の、気持ちのいい場所にある古い小さな町から、1本の道が木のしげった緑の牧草地を抜け、山の麓に向かってのびていました。高い山は、こちら側から見上げるととても大きく、厳しい表情で谷を見下ろしています。道は急勾配(こうばい)になり、まっすぐにアルプス山脈へと続いているのでした。
 
明るく晴れた6月の朝、この山道を、背の高いがっしりとした体格の若い女性が登っていきました。一人の子どもの手を引いています。その子のほっぺたは燃えるように赤く、もともと日に焼けた茶色の肌さえも、火のように赤く輝かせていました。それも無理はありません。6月の太陽が出ている暑い日なのに、その子はまるでひどい霜が降りるときのように、厚着をさせられていたのです。
(略)
二人は谷から1時間ほど登ったところで、小さな集落にやってきました。その集落はアルム(山の上の牧草地)に行く途中にあって、「デルフリ(小さな村)」という名前で呼ばれていました。この集落に入ると、山を登っていく二人に、ほとんどすべての家から声がかかりました。というのも、この女性にとっては、ここがふるさとだったのです。
マイエンフェルトは、スイス東部のオーストリアやリヒテンシュタインとの国境近く、グラウビュンデン州にある実在の町です。ライン川を挟んでその町の近郊にあるラガーツ温泉は、先ほど触れたように、作者シュピリが息子の療養のため湯治に訪れ、長期滞在した場所でした。また、1879年の夏、シュピリはその近郊のイェニンスという村にある友人の家に滞在して、『ハイジ』の構想を練ったといいます。この村かもしくはローフェルスというもう一つの村が、「小さな村」という意味の架空の集落「デルフリ」のモデルだろうと推測されています(ちなみにローフェルス村に行くと、「ここがハイジのデルフリ村」という標識が立っています)。
高山の天然の牧草地を指す「アルム」は、ドイツ南部の方言で、スイスのドイツ語では「アルプ」なのですが、『ハイジ』が書かれたころはドイツ南部の方言が流行していたので、シュピリはこの言葉を選んだようです。この地方では夏のあいだ、牛や羊や山羊を山の高いところで放牧するという牧畜が昔から行われていました。
「アルプス山脈」と言っても、このあたりの山はさほど標高が高くなく、例えば『ハイジ』に出てくるファルクニス(Falknis というスペルはドイツ語の「鷹」[Falke]を思わせますが、山の名前はラテン語の「小さな鎌」という単語から来ているようです)は標高2,562メートル。モンブランやマッターホルンのような4,000メートル級ではなく、せいぜい2,000メートル級なので、冬場は白銀の雪に閉ざされますが、夏になると高原の雪は融けて美しい緑に包まれます。
暑いのに厚着をさせられて着ぶくれした5歳の女の子、ハイジの手を引いて、アルムへと登っていくのはデーテという26歳の女性です。「デーテ」という名前はおそらく「ドロテーア」の省略形でしょう。この作品ではいろんな人の名前が省略形になっていて、「ハイジ」もあとでわかるように「アーデルハイト」という名前の省略形です。後半部分の「ハイト」を「ハイディ」と呼んだのです。この場面で、デーテはバルベルというデルフリの住人の女性に話しかけられるのですが、おそらく「バルベル」も「バルバラ」など通常の名前を変化させたものでしょう。
デーテとバルベルの会話から、状況が少しずつわかってきます。デルフリで生まれたデーテは、亡くなった姉の子どもであるハイジを引き取って、幼いハイジの面倒を見ながら、1年前まで母親と一緒にここで暮らしていました。ところが母親も亡くなったので、ラガーツの温泉地に引っ越し、そこの大きなホテルで部屋係のメイドの仕事をしていたのです。世話をした滞在客の家族に気に入られ、ドイツの大都会フランクフルトの屋敷で雇いたいと誘われたのですが、そこへは子どもを連れて行くことができません。そこで山の上の小屋にひとりで暮らしている、「アルムのおじさん」と呼ばれる70歳くらいの老人のところへハイジを連れて行き、預かってもらおうというのです。
この話から、当時の背景がわかります。デーテがフランクフルトから来た裕福な家族から声をかけられ、ドイツで働くチャンスを得たのは、スイスの温泉がドイツをはじめ、各国の富裕層が集まる保養地になっていたからです。13世紀に開かれ、16世紀には温泉主治医を務めたパラケルススという有名な学者によってその効用が研究されたラガーツ温泉は、19世紀になると保養地として発展し、高級ホテルが建てられて、多くの滞在客で賑わうようになりました。有名なところでは、哲学者のシェリング、ニーチェ、作家のヴィクトル・ユゴー、アンデルセン、トーマス・マン、ヘルマン・ヘッセ、詩人のリルケ 、発明家のエジソンなどもこの地を訪れたといいます。やがて観光地として国際化していくスイスを象徴するような場所でもあったのです。
もう一つ、デーテがドイツという外国に行くことをチャンスととらえているように、スイスが大量の移民を送り出している時代だったということも、この物語の背景にあります。1850年から1888年のあいだに20万人以上のスイス人が国を出ていったそうですが、『ハイジ』が書かれた1870年代末から80年代にかけては、大不況の影響で国外移民が急増しました(踊共2『図説スイスの歴史』河出書房新社、2011)。
ただしこの時代は、スイスばかりでなくヨーロッパ各国で、貧しい人たちが豊かさや自由を求め、生まれた土地から移動していきました。例えばアメリカにも、ヨーロッパから大量の移民が渡った時代です。しかしとりわけ山岳地帯が多くを占める貧しい国だったスイスからは、数多くの人たちが外国に移住したのです。
また19世紀は都市が急速に発達した時代でもあって、農村を離れた人々が都市に集まり、都市人口が爆発的に増えました。ベルリンなどはインフラ整備が追いつかず、住環境が悪くて問題になる地域もできてしまいます。フランクフルトの人口も、1848年に5万4千人人だったのが、1875年にはおよそ倍の10万3千人になり、『ハイジ』が出版された1880年で13万5千人、1900年になると28万9千人と、やはり急速に増えています(小倉欣1・大澤武男『都市フランクフルトの歴史』中公新書、1994)。
さらに言えば、人口移動の手段として、鉄道の開通も大きな役割を果たしています。1847年にチューリヒとバーデンの間に鉄道が開通し、マイエンフェルトに鉄道が通じたのが1858年。『ハイジ』の物語は、スイスのマイエンフェルトからドイツのフランクフルトまで鉄道が通じていなければ成立しません。近代化の影響とそれに伴う人の移動が、この物語の背景にはあるのです。
■『NHK100分de名著 シュピリ アルプスの少女ハイジ』より

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シュピリ『アルプスの少女ハイジ』  2019年6月 (NHK100分de名著)
『シュピリ『アルプスの少女ハイジ』 2019年6月 (NHK100分de名著)』
松永 美穂
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