「過ちを犯した人を愛せ」 アウレリウスの真意

ローマ帝国の五賢帝時代最後の皇帝、マルクス・アウレリウス・アントニヌスは、自らを裏切って謀反を起こした重臣を許そうとしました。『自省録』で、過ちを犯した人を許すだけでなく、愛せといったアウレリウスの真意を哲学者の岸見一郎(きしみ・いちろう)さんが解説します。

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私たちは皆、他者との関わりの中で生きています。世の中にはいろいろな人がいますから、そこに摩擦や軋轢(あつれき)が生じるのは仕方のないことでしょう。心理学の三大巨匠としてフロイト、ユングと並び称されるアルフレッド・アドラーは、すべての悩みは対人関係の悩みだと指摘しています。
悩みの源泉だとしても、それを避けて通ることはできません。何より、生きる喜びや幸福は、他者との関わりの中でしか得られないものです。自分の「外」にあって、時に私たちを苦しめもする「他者」と、どう関わり、どのような関係を構築していくかは古今東西共通のテーマです。
アウレリウスも、ローマ帝国を侵食して覇権を狙う周辺民族との対立や、「互いに軽蔑し合いながら互いにへつらい合う。そして、相手に優越しようと欲しながら互いに譲り合う」(一一・一四)腐敗した宮廷の人間模様、家臣の裏切りに悩まされていました。なかでも衝撃的だったのが、アウィディウス・カッシウスの反乱です。
カッシウスは、アウレリウスが急死したという誤報に接し、後継者に名乗りをあげて挙兵しました。結局、蜂起直後にカッシウスは部下に惨殺され反乱はすぐに終息しましたが、謀反(むほん)の知らせを聞いたアウレリウスは、カッシウスを許すつもりでいたのです。
カッシウスの首がアントニヌス(アウレリウス)の元に送られてきた時、彼は喜ぶことも誇ることもせず、慈悲をかける機会を奪われたことを悲しんだ。自らの心でもって責め、命を助けるために、生きたまま捕えたいといっていたからである。

(ウルカキウス・ガリカヌス『アウィディウス・カッシウスの生涯』)



アウレリウスが、裏切り者や過ちを犯した人に対して、常に寛容であろうと努めていたことは『自省録』の言葉からも明らかです。
過ちを犯す者をも愛することは、人間に固有のことだ。それは次のことをお前が思えた時にできるようになる。すなわち、彼らがお前と同類であり、無知のため心ならずも過ちを犯すということ、彼らもお前も束の間のうちに死んでしまうであろうこと、とりわけ、お前に害を加えはしなかった。なぜなら、お前の指導的部分(理性)を以前より悪くはしなかったから、ということを。

(七・二二)



許すだけでなく、過ちを犯した人を愛せ、といっています。なぜなら、それは「人間に固有のこと」、つまり自然に即して生きることにつながるからです。カッシウスは、確かに自分を裏切った。しかし自分にとって何よりも重要な「理性」が脅かされたわけではない。その意味で、自分はカッシウスから何ら害を被ってはいないのだから愛せるはずだ、といっているのです。
アウレリウスは、自分も彼も、知性と一片の神性を分有し(二・一)、同じ過ちを犯しうるという意味で「同類」だとしています。自分も同じ過ちを犯しうるということを自覚していれば、自分のことを棚に上げて相手を怒ったり、責めたりすることはできないはず──とも指摘しています。
誰かがお前に何か過ちを犯した時には、何を善、あるいは悪と考えて過ちを犯したのかを直ちに考えよ。なぜなら、それを見れば、お前は彼を憐れみ、驚くことも、怒ることもないだろうからだ。

(七・二六)



相手の言動に腹を立てるのではなく、その人がなぜ過ちを犯したのか考えてみよとアウレリウスは自省します。ついカッとしてしまった時、なぜ相手がそんなことをしたのか立ち止まって考えてみるのは、直情的な怒りを鎮めるのによい方法だと思います。ここで大切なのは「何を善、あるいは悪と考えて過ちを犯したのか」という部分です。
※続きはテキストをご覧ください。
※文中で引用する『自省録』の言葉は岸見一郎さんによる訳です。
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