『明暗』は「私小説」ならぬ「痔小説」
漱石の未完の絶筆『明暗』。東京大学教授の阿部公彦(あべ・まさひこ)さんが、一行目から読者を惹きつける独特なオープニング部分を引きながら、どんな作品であるのか解説します。
* * *
『明暗』は、1916(大正5)年5月から朝日新聞紙上で連載が開始され、漱石の死去によって未完に終わった作品です。しかし遺された分量だけでも漱石作品中もっとも長大で、新潮文庫版にして650ページもの大作となっています。
主人公は津田由雄。痔を患っています。主人公の説明として「痔を患っている」と始めるのもどうかと思うのですが、小説自体がそのように始まっているので仕方がありません。冒頭部では以下のように、手術台の上の津田の様子が描かれます。
医者は探りを入れた後で、手術台の上から津田(つだ)を下(おろ)した。
「矢張(やつぱり)穴が腸まで続いているんでした。この前探った時は、途中に瘢痕(はんこん)の隆起があったので、つい其所(そこ)が行(い)き留りだとばかり思って、ああ云(い)ったんですが、今日疎通(そつう)を好(よ)くする為(ため)に、其奴(そいつ)をがりがり掻(か)き落して見ると、まだ奥があるんです」
「そうしてそれが腸まで続いているんですか」
「そうです。五分(ぶ)位だと思っていたのが約一寸あるんです」
津田の顔には苦笑の裡(うち)に淡く盛り上げられた失望の色が見えた。
鮮烈なオープニングです。津田は、病院でお尻を出している姿で読者の前に登場するのです。しかも、このあとも痔の問題はついてまわります。あらすじのところで詳しく説明しますが、津田と妻のお延(のぶ)は、はじめは手術の日程をどうするかで揉め、それから術後療養の温泉行きのことでも揉める。すべて原因は痔です。
こうしたプロットレベルの話に限らず、細部にも「痔的なもの」が行き渡っています。小説は「痔の構造」の上につくられているのです。胃弱小説としての『道草』では、得も言われぬ感情的な不快感が腹部のもやもやと連動していました。健三は曖昧で片付かない面倒だらけの世界を、慢性的な胃部不快感に悩まされる「胃弱者の現実」として受け入れます。これに対し、『明暗』ではもっと明確な「痛み」がある。
「どうしてあんな苦しい目にあったんだろう」と津田が思い出すのは痔の激しい疼痛(とうつう)。そんな苦痛が津田のなかでは精神的な「痛み」と重なります。「精神界も同じ事だ。精神界も全く同じ事だ。何時どう変るか分らない。そうしてその変る所を己(おれ)は見たのだ」。「何時どう変るか分らない」とは、彼の婚約者だった清子の心変わりを指しています。
「どうしてあの女は彼所(あすこ)へ嫁に行ったのだろう。それは自分で行こうと思ったから行ったに違(ちがい)ない。然(しか)しどうしても彼所へ嫁に行く筈(はず)ではなかったのに。そうしてこの己(おれ)は又どうしてあの女と結婚したのだろう。(中略)」
いつまでもこうして過去に拘泥(こうでい)するのは『道草』の健三と同じですが、津田の場合、力点というか、問題の在処(ありか)がもう少し明確のようです。痔も恋愛も、少なくとも「謎」があることははっきりしている。だから「病巣を突き止めたい」「除去したい」「すっきりしたい」と考えるわけです。津田の中では男女の仲までもが「痔的」なのです。でも、解決はそう簡単ではありません。医者はいかにも思わせぶりに「まだ奥があるんです」などとおどかします。
『道草』が、何となく気持ちが悪いという胃部不快感を陰の主役とした「胃弱小説」だとすれば、『明暗』も同じく腹部とつらなる、しかし、もっと激しい明確な痛みを描く作品です。私小説ならぬ痔小説と呼んでもいいでしょう。もちろん『明暗』でももやもやした不快感はたえず津田を悩ませる。だからこそ、彼はすっきりしたいと願う。
療治の必要上、長い事止められていた便の疎通を計るために、彼はまた軽い下剤を飲まなければならなかった。さほど苦にもならなかった腹の中が軽くなるに従って、彼の気分も何時(いつ)か軽くなった。身体(からだ)の楽になった彼は、寐転(ねこ)ろんでただ退院の日を待つだけであった。
『道草』とは違い、津田は「腹の中が軽くなる」ことを願う。実際に処置もほどこす。このあたり、『明暗』が漱石最期の作品となることを考えると、少し痛ましい気持ちにもなります。「腹の中が軽くなる」とは、漱石にとって最終的にはどういう意味を持ったのでしょう。
それにしても津田は小説の主人公のくせに、実に受け身です。自分からはほとんど何もしない。第1回で扱った『三四郎』にも動機のない主人公という側面はありましたが、三四郎はまだ若くて元気なので、一応はずんずんと歩き回ったり知らない人と出会ったりします。しかし、津田は痔のせいで動くことすらしない。放っておくとずっと家でゴロゴロしている。
こんな主人公でほんとに大丈夫なのか? と心配になります。果たしてこれで、小説が動き出すのか。しかし、『明暗』がおもしろいのは、主人公に具体的な行動があまりないのに、読者から見ると作品全体が動きに満ちていて、ぐいぐい引き込まれてしまうということです。『明暗』でも、『三四郎』の「ずんずん歩き」や『道草』の「くりかえし」のような何かが働いているようです。それはいったい何か。今回はそのあたりを中心に考えてみたいと思います。
※続きはテキストでお楽しみください。
■『NHK100分de名著 夏目漱石スペシャル』より
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『明暗』は、1916(大正5)年5月から朝日新聞紙上で連載が開始され、漱石の死去によって未完に終わった作品です。しかし遺された分量だけでも漱石作品中もっとも長大で、新潮文庫版にして650ページもの大作となっています。
主人公は津田由雄。痔を患っています。主人公の説明として「痔を患っている」と始めるのもどうかと思うのですが、小説自体がそのように始まっているので仕方がありません。冒頭部では以下のように、手術台の上の津田の様子が描かれます。
医者は探りを入れた後で、手術台の上から津田(つだ)を下(おろ)した。
「矢張(やつぱり)穴が腸まで続いているんでした。この前探った時は、途中に瘢痕(はんこん)の隆起があったので、つい其所(そこ)が行(い)き留りだとばかり思って、ああ云(い)ったんですが、今日疎通(そつう)を好(よ)くする為(ため)に、其奴(そいつ)をがりがり掻(か)き落して見ると、まだ奥があるんです」
「そうしてそれが腸まで続いているんですか」
「そうです。五分(ぶ)位だと思っていたのが約一寸あるんです」
津田の顔には苦笑の裡(うち)に淡く盛り上げられた失望の色が見えた。
鮮烈なオープニングです。津田は、病院でお尻を出している姿で読者の前に登場するのです。しかも、このあとも痔の問題はついてまわります。あらすじのところで詳しく説明しますが、津田と妻のお延(のぶ)は、はじめは手術の日程をどうするかで揉め、それから術後療養の温泉行きのことでも揉める。すべて原因は痔です。
こうしたプロットレベルの話に限らず、細部にも「痔的なもの」が行き渡っています。小説は「痔の構造」の上につくられているのです。胃弱小説としての『道草』では、得も言われぬ感情的な不快感が腹部のもやもやと連動していました。健三は曖昧で片付かない面倒だらけの世界を、慢性的な胃部不快感に悩まされる「胃弱者の現実」として受け入れます。これに対し、『明暗』ではもっと明確な「痛み」がある。
「どうしてあんな苦しい目にあったんだろう」と津田が思い出すのは痔の激しい疼痛(とうつう)。そんな苦痛が津田のなかでは精神的な「痛み」と重なります。「精神界も同じ事だ。精神界も全く同じ事だ。何時どう変るか分らない。そうしてその変る所を己(おれ)は見たのだ」。「何時どう変るか分らない」とは、彼の婚約者だった清子の心変わりを指しています。
「どうしてあの女は彼所(あすこ)へ嫁に行ったのだろう。それは自分で行こうと思ったから行ったに違(ちがい)ない。然(しか)しどうしても彼所へ嫁に行く筈(はず)ではなかったのに。そうしてこの己(おれ)は又どうしてあの女と結婚したのだろう。(中略)」
いつまでもこうして過去に拘泥(こうでい)するのは『道草』の健三と同じですが、津田の場合、力点というか、問題の在処(ありか)がもう少し明確のようです。痔も恋愛も、少なくとも「謎」があることははっきりしている。だから「病巣を突き止めたい」「除去したい」「すっきりしたい」と考えるわけです。津田の中では男女の仲までもが「痔的」なのです。でも、解決はそう簡単ではありません。医者はいかにも思わせぶりに「まだ奥があるんです」などとおどかします。
『道草』が、何となく気持ちが悪いという胃部不快感を陰の主役とした「胃弱小説」だとすれば、『明暗』も同じく腹部とつらなる、しかし、もっと激しい明確な痛みを描く作品です。私小説ならぬ痔小説と呼んでもいいでしょう。もちろん『明暗』でももやもやした不快感はたえず津田を悩ませる。だからこそ、彼はすっきりしたいと願う。
療治の必要上、長い事止められていた便の疎通を計るために、彼はまた軽い下剤を飲まなければならなかった。さほど苦にもならなかった腹の中が軽くなるに従って、彼の気分も何時(いつ)か軽くなった。身体(からだ)の楽になった彼は、寐転(ねこ)ろんでただ退院の日を待つだけであった。
『道草』とは違い、津田は「腹の中が軽くなる」ことを願う。実際に処置もほどこす。このあたり、『明暗』が漱石最期の作品となることを考えると、少し痛ましい気持ちにもなります。「腹の中が軽くなる」とは、漱石にとって最終的にはどういう意味を持ったのでしょう。
それにしても津田は小説の主人公のくせに、実に受け身です。自分からはほとんど何もしない。第1回で扱った『三四郎』にも動機のない主人公という側面はありましたが、三四郎はまだ若くて元気なので、一応はずんずんと歩き回ったり知らない人と出会ったりします。しかし、津田は痔のせいで動くことすらしない。放っておくとずっと家でゴロゴロしている。
こんな主人公でほんとに大丈夫なのか? と心配になります。果たしてこれで、小説が動き出すのか。しかし、『明暗』がおもしろいのは、主人公に具体的な行動があまりないのに、読者から見ると作品全体が動きに満ちていて、ぐいぐい引き込まれてしまうということです。『明暗』でも、『三四郎』の「ずんずん歩き」や『道草』の「くりかえし」のような何かが働いているようです。それはいったい何か。今回はそのあたりを中心に考えてみたいと思います。
※続きはテキストでお楽しみください。
■『NHK100分de名著 夏目漱石スペシャル』より
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