災厄は天罰か……?
アルベール・カミュの『ペスト』では、異なる立場の人々が、ペストをどう捉え、どう向き合っていくかが描かれます。学習院大学教授の中条省平(ちゅうじょう・しょうへい)さんが、ペストを天罰であると表現した司祭の言葉について医師と記録者が語り合う場面を引いて、読み解きます。
* * *
町の教会は祈禱(きとう)週間を催し、イエズス会士の司祭であるパヌルー神父が聖堂で説教をします。その第一声は、「わが兄弟たちよ、あなたがたは災いのなかにいます。そして、それは当然の報いなのです」という痛烈なものでした。
続けてパヌルー神父は「エジプトのペストに関する『出エジプト記』の記述」を引用して、「神の災厄」が人々を跪(ひざまず)かせるのだといいます。
「今日、ペストがあなたがたに関わるようになったのは、反省すべき時が来たということなのです。心正しい人は恐れることはありません。しかし悪しき人々は震えおののく必要があるでしょう。宇宙の広大な穀倉のなかで、情け容赦のない災厄の殻竿(からざお)は人間という麦を打って、麦の粒が藁から離れるまでやめないでしょう」
ここで「災厄の殻竿」という言葉が出てきますが、フランス語では一語でfléau(フレオー)といい、「災厄」と「殻竿」の両方の意味をもっています。もともとこの言葉は麦を打って殻を外し、脱穀するための道具「殻竿」を指すものですが、語源的には「鞭(むち)」を意味しています。ですから、「災厄」には、「殻竿」のように神が天から人間にむけて振りおろす「鞭」というイメージが生じるわけです。
要するにこの説教は、ある人々にたいして、それまで漠然としていた考えをはっきりと感じさせたのだ。つまり、自分たちは何か知らない罪を犯したために有罪を宣告され、想像を絶した監禁状態に服役させられているという考えである。
カトリック的な土壌のない日本でも、同様ないい方として「天罰」がありますね。近年でも東日本大震災が起こったときに、当時東京都知事だった石原慎太郎氏が黙示録的な意味で「天罰」だと語り、議論を呼んだのは記憶に新しいところです。何の理由もなく災厄を受けた人々が、それが自分に降りかかったことに必然性があったと思わされてしまう。そんな力をもつ言葉の恐ろしさ、危険性を、カミュはちゃんと押さえています。
そんなパヌルー神父の説教を受けて、観察者であり記録者でもあるタルーは、志願者による保健隊を結成するために医師リウーと長い対話をおこなったとき、「パヌルーの説教についてどう考えますか、先生?」と尋ねます。リウーは「病院のなかばかりで暮らしてきたので、集団的懲罰などという考えは好きになれませんね」と答えます。たしかにパヌルーの考えを拡大すれば、普通の病気も神の罰かもしれず、病人は罪人ということになりかねません。タルーはまた質問し、
「神を信じていますか、先生?」(中略)
「いいえ。(中略)私は暗い夜のなかにいます。そのなかで明るく見きわめ
ようと努めているのです」
とリウーが答えます。新聞記者のランベールからは「抽象の言葉」だと批判されたけれども、リウーにとっては大事なことが語られていきます。そして、自分が神という観念をどうして拒否しなくてはならないのかという、リウーなりの回答がなされます。
「なぜ、あなた自身はそんなに献身的になれるんですか、神を信じていないのに?」(中略)
医師は、(中略)もし自分が全能の神を信じていたら、人々を治療するのをやめて、人間の面倒をすべて神に任せてしまうだろうから、といった。
つまり、神という観念を信じてそれに頼ってしまうと、結局人間の責任というものがなくなってしまう。前回、カミュの反人間中心主義の立場について触れましたが、ここでリウーは、神ではなく人間の側に立つために、無神論を選択しています。その意味では、「実存主義はヒューマニズムである」と宣言したサルトルの立場に近いといえます。
フランスをふくめたヨーロッパの多くの地域は、カトリック的な土壌の上になりたっていますから、そこでは神がつねに問題となります。侵略や圧政的支配の歴史のなかで、絶対的な力をもつ神が存在し、いつか悪しき支配者たちを罰し、自分たち犠牲者の味方をして救ってくれるというルサンチマン(怨恨)の感情が、一神教のメンタリティ(精神性)を根底で支えています。『チャタレイ夫人の恋人』で知られる作家D・H・ロレンスは、こうしたキリスト教的な思考を批判しました。そのように全能の神が人々の最終的な救いの拠りどころとして作用しているキリスト教的ヨーロッパで、カミュはそうした精神の支配と戦ったわけです。もちろんその戦いは困難で、いまだ勝つことは容易ではありません。
リウーは、医師でもないのに命を賭してペストと戦おうとするタルーに、逆にこういう質問を放ちます。
「ねえ、タルーさん」とリウーはいった。「いったい何が君をそうさせるんです、こんなことをひき受けるとは?」
「分かりません。僕の倫理かもしれません」
「どんな倫理です?」
「理解することです」
「倫理」の原語はmorale です。普通は「道徳」と訳しますし、じっさい、新潮文庫版の訳者である宮崎嶺雄氏は「道徳」と訳しています。しかし、「道徳」だと善悪の判断という意味あいが強くなってしまいます。「倫理」と訳しても善悪のニュアンスが消えるわけではありませんが、モラルはもともと善悪とは直接関係はなく、語源的にはmoeurs(風習)に近い「行動様式」や「意志」を表す抽象的な言葉です。
それはともかく、タルーのいう「理解すること」と、リウーの「明るく(明晰に)見きわめること」という行動様式(モラル)がここで通じあい、二人はこの点で一致して、行動にむけて手をつなぐことができました。それは、神なき世界での実践ということです。
■『NHK100分de名著 アルベール・カミュ ペスト』より
* * *
町の教会は祈禱(きとう)週間を催し、イエズス会士の司祭であるパヌルー神父が聖堂で説教をします。その第一声は、「わが兄弟たちよ、あなたがたは災いのなかにいます。そして、それは当然の報いなのです」という痛烈なものでした。
続けてパヌルー神父は「エジプトのペストに関する『出エジプト記』の記述」を引用して、「神の災厄」が人々を跪(ひざまず)かせるのだといいます。
「今日、ペストがあなたがたに関わるようになったのは、反省すべき時が来たということなのです。心正しい人は恐れることはありません。しかし悪しき人々は震えおののく必要があるでしょう。宇宙の広大な穀倉のなかで、情け容赦のない災厄の殻竿(からざお)は人間という麦を打って、麦の粒が藁から離れるまでやめないでしょう」
ここで「災厄の殻竿」という言葉が出てきますが、フランス語では一語でfléau(フレオー)といい、「災厄」と「殻竿」の両方の意味をもっています。もともとこの言葉は麦を打って殻を外し、脱穀するための道具「殻竿」を指すものですが、語源的には「鞭(むち)」を意味しています。ですから、「災厄」には、「殻竿」のように神が天から人間にむけて振りおろす「鞭」というイメージが生じるわけです。
要するにこの説教は、ある人々にたいして、それまで漠然としていた考えをはっきりと感じさせたのだ。つまり、自分たちは何か知らない罪を犯したために有罪を宣告され、想像を絶した監禁状態に服役させられているという考えである。
カトリック的な土壌のない日本でも、同様ないい方として「天罰」がありますね。近年でも東日本大震災が起こったときに、当時東京都知事だった石原慎太郎氏が黙示録的な意味で「天罰」だと語り、議論を呼んだのは記憶に新しいところです。何の理由もなく災厄を受けた人々が、それが自分に降りかかったことに必然性があったと思わされてしまう。そんな力をもつ言葉の恐ろしさ、危険性を、カミュはちゃんと押さえています。
そんなパヌルー神父の説教を受けて、観察者であり記録者でもあるタルーは、志願者による保健隊を結成するために医師リウーと長い対話をおこなったとき、「パヌルーの説教についてどう考えますか、先生?」と尋ねます。リウーは「病院のなかばかりで暮らしてきたので、集団的懲罰などという考えは好きになれませんね」と答えます。たしかにパヌルーの考えを拡大すれば、普通の病気も神の罰かもしれず、病人は罪人ということになりかねません。タルーはまた質問し、
「神を信じていますか、先生?」(中略)
「いいえ。(中略)私は暗い夜のなかにいます。そのなかで明るく見きわめ
ようと努めているのです」
とリウーが答えます。新聞記者のランベールからは「抽象の言葉」だと批判されたけれども、リウーにとっては大事なことが語られていきます。そして、自分が神という観念をどうして拒否しなくてはならないのかという、リウーなりの回答がなされます。
「なぜ、あなた自身はそんなに献身的になれるんですか、神を信じていないのに?」(中略)
医師は、(中略)もし自分が全能の神を信じていたら、人々を治療するのをやめて、人間の面倒をすべて神に任せてしまうだろうから、といった。
つまり、神という観念を信じてそれに頼ってしまうと、結局人間の責任というものがなくなってしまう。前回、カミュの反人間中心主義の立場について触れましたが、ここでリウーは、神ではなく人間の側に立つために、無神論を選択しています。その意味では、「実存主義はヒューマニズムである」と宣言したサルトルの立場に近いといえます。
フランスをふくめたヨーロッパの多くの地域は、カトリック的な土壌の上になりたっていますから、そこでは神がつねに問題となります。侵略や圧政的支配の歴史のなかで、絶対的な力をもつ神が存在し、いつか悪しき支配者たちを罰し、自分たち犠牲者の味方をして救ってくれるというルサンチマン(怨恨)の感情が、一神教のメンタリティ(精神性)を根底で支えています。『チャタレイ夫人の恋人』で知られる作家D・H・ロレンスは、こうしたキリスト教的な思考を批判しました。そのように全能の神が人々の最終的な救いの拠りどころとして作用しているキリスト教的ヨーロッパで、カミュはそうした精神の支配と戦ったわけです。もちろんその戦いは困難で、いまだ勝つことは容易ではありません。
リウーは、医師でもないのに命を賭してペストと戦おうとするタルーに、逆にこういう質問を放ちます。
「ねえ、タルーさん」とリウーはいった。「いったい何が君をそうさせるんです、こんなことをひき受けるとは?」
「分かりません。僕の倫理かもしれません」
「どんな倫理です?」
「理解することです」
「倫理」の原語はmorale です。普通は「道徳」と訳しますし、じっさい、新潮文庫版の訳者である宮崎嶺雄氏は「道徳」と訳しています。しかし、「道徳」だと善悪の判断という意味あいが強くなってしまいます。「倫理」と訳しても善悪のニュアンスが消えるわけではありませんが、モラルはもともと善悪とは直接関係はなく、語源的にはmoeurs(風習)に近い「行動様式」や「意志」を表す抽象的な言葉です。
それはともかく、タルーのいう「理解すること」と、リウーの「明るく(明晰に)見きわめること」という行動様式(モラル)がここで通じあい、二人はこの点で一致して、行動にむけて手をつなぐことができました。それは、神なき世界での実践ということです。
■『NHK100分de名著 アルベール・カミュ ペスト』より
- 『アルベール・カミュ『ペスト』 2018年6月 (100分 de 名著)』
- NHK出版
- 566円(税込)
- >> Amazon.co.jp
- >> HonyaClub.com
- >> HMV&BOOKS