誰でも成仏できると説いた『法華経』
『法華経』は、“出家と在家”や“男性と女性”といった区別なく、人間は誰でも一人残らず成仏できると説いたお経です。この特徴は、第一章から如実に表れています。仏教思想研究家の植木雅俊(うえき・まさとし)さんが読み解きます。
* * *
まずは第一章「序品(じょぼん)」(第一)です。序品は次のような言葉で始まります。
このように私は聞いた。ある時、世尊(せそん)は、1200人の男性出家者の大集団(比丘僧伽〈びくそうぎゃ〉)とともに、王舎城(おうしゃじょう)の霊鷲山で過ごしておられた。
仏教のあらゆる経典は、「このように私は聞いた(如是我聞〈にょぜがもん〉)」で始まります。これは、釈尊が亡くなったあと弟子たちが教えを確認しあう仏典結集を行なった際、釈尊に常に随行していた多聞(たもん)第一の阿難が、まず「私はこのように聞きました」と切り出して、自分が覚えている釈尊の教えを語ったことから定着した形式です。1200人の弟子と一緒だったというのも多くの経典に共通した書き出しで、数字は1250人とするのが一般的です。
続けて、主な弟子たちの名前が列挙されます。舎利弗、阿難などよく知られた仏弟子たちのほか、摩訶波闍波提(まかはじゃはだい/マハー・プラジャーパティー)、耶輸陀羅(やしゅだら/ヤショーダラー)などの女性たちもそれぞれ女性出家者を何千人と伴って参列しています。加えて、8万人の菩薩、2万の神々の子に伴われた帝釈天(シャクラ神)、3万の神々の子に伴われた四天王、1万2千人の神々の子に伴われた梵天(ブラフマー神)、天龍八部衆などが参列しているとされ、拙訳で数えると実に四ページ半にわたって長々と参列者の名前が列挙されます。そんな経典はほかにはありません。なぜ『法華経』にはこれほどの数の名前が列挙されているのでしょうか。それはおそらく、『法華経』があらゆる人の成仏を説く経典であることの象徴として、あらゆる階層の人々を列挙したからなのでしょう。
参列者たちの羅列が終わると、六つの瑞相(ずいそう/めでたいことが起こる前兆)が出現します。まずは説法瑞(せっぽうずい)です。釈尊が「広大なる菩薩のための教えであり、すべてのブッダが把握している“大いなる教説”(無量義〈むりょうぎ〉)という名前の法門である経」を説きます。「広大なる(……)把握している」は、『法華経』を修飾する決まり文句です。ですからこれはつまり、釈尊が『法華経』を説いたということです。
ところが、釈尊がいきなり『法華経』のエッセンスを説き始めたものですから、参列者たちは理解できなかったのでしょう。釈尊は「これはまだ少し早かった」と言わんばかりに、瞑想(三昧〈さんまい〉)に入ってしまいます。これが入定瑞(にゅうじょうずい)です。
そして雨華瑞(うけずい/曼荼羅華〈まんだらけ〉などの花が天から降ってくる)、地動瑞(ちどうずい/大地が震動する)、衆喜瑞(しゅきずい/すべての人々が大いなる歓喜を得る)が起こり、さらには、釈尊の眉間の巻き毛の塊(白毫〈びゃくごう〉)から光が放たれ、東方の1万8千のブッダの国土を照らし出しました(放光瑞〈ほうこうずい〉)。そこには、譬喩(ひゆ)や因縁によって説法するブッダたちがいたり、ストゥーパ信仰が盛んであったり、花や香や演奏でストゥーパに供養する人々がいたり、六波羅蜜(ろくはらみつ)を修行する人がいたり、人けのない荒野、あるいは岩の洞穴に住む人々がいたりなど、さまざまな仏道修行をする人たちの様子が浮かび上がりました。
この、さまざまな仏道修行をする人たちの様子は何を意味するのでしょうか。これは、『法華経』が編纂された当時の仏教界の現状を要約したものであると解釈するとよいでしょう。これから『法華経』を語るにあたって、仏教界の現状はこうですよ、というものを改めて示したわけです。照らし出した方角がなぜ東方だったのかと言えば、『法華経』が編纂されたのはガンダーラを含む西北インドであり、そこからブッダガヤーや鹿野苑(ろくやおん)を見ると東になるからです。仏教の原点である東の方を照らし出して、「現状の仏教界はこうです」と見せつけたと理解すればよいでしょう。
■『NHK100分de名著 法華経』より
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まずは第一章「序品(じょぼん)」(第一)です。序品は次のような言葉で始まります。
このように私は聞いた。ある時、世尊(せそん)は、1200人の男性出家者の大集団(比丘僧伽〈びくそうぎゃ〉)とともに、王舎城(おうしゃじょう)の霊鷲山で過ごしておられた。
仏教のあらゆる経典は、「このように私は聞いた(如是我聞〈にょぜがもん〉)」で始まります。これは、釈尊が亡くなったあと弟子たちが教えを確認しあう仏典結集を行なった際、釈尊に常に随行していた多聞(たもん)第一の阿難が、まず「私はこのように聞きました」と切り出して、自分が覚えている釈尊の教えを語ったことから定着した形式です。1200人の弟子と一緒だったというのも多くの経典に共通した書き出しで、数字は1250人とするのが一般的です。
続けて、主な弟子たちの名前が列挙されます。舎利弗、阿難などよく知られた仏弟子たちのほか、摩訶波闍波提(まかはじゃはだい/マハー・プラジャーパティー)、耶輸陀羅(やしゅだら/ヤショーダラー)などの女性たちもそれぞれ女性出家者を何千人と伴って参列しています。加えて、8万人の菩薩、2万の神々の子に伴われた帝釈天(シャクラ神)、3万の神々の子に伴われた四天王、1万2千人の神々の子に伴われた梵天(ブラフマー神)、天龍八部衆などが参列しているとされ、拙訳で数えると実に四ページ半にわたって長々と参列者の名前が列挙されます。そんな経典はほかにはありません。なぜ『法華経』にはこれほどの数の名前が列挙されているのでしょうか。それはおそらく、『法華経』があらゆる人の成仏を説く経典であることの象徴として、あらゆる階層の人々を列挙したからなのでしょう。
参列者たちの羅列が終わると、六つの瑞相(ずいそう/めでたいことが起こる前兆)が出現します。まずは説法瑞(せっぽうずい)です。釈尊が「広大なる菩薩のための教えであり、すべてのブッダが把握している“大いなる教説”(無量義〈むりょうぎ〉)という名前の法門である経」を説きます。「広大なる(……)把握している」は、『法華経』を修飾する決まり文句です。ですからこれはつまり、釈尊が『法華経』を説いたということです。
ところが、釈尊がいきなり『法華経』のエッセンスを説き始めたものですから、参列者たちは理解できなかったのでしょう。釈尊は「これはまだ少し早かった」と言わんばかりに、瞑想(三昧〈さんまい〉)に入ってしまいます。これが入定瑞(にゅうじょうずい)です。
そして雨華瑞(うけずい/曼荼羅華〈まんだらけ〉などの花が天から降ってくる)、地動瑞(ちどうずい/大地が震動する)、衆喜瑞(しゅきずい/すべての人々が大いなる歓喜を得る)が起こり、さらには、釈尊の眉間の巻き毛の塊(白毫〈びゃくごう〉)から光が放たれ、東方の1万8千のブッダの国土を照らし出しました(放光瑞〈ほうこうずい〉)。そこには、譬喩(ひゆ)や因縁によって説法するブッダたちがいたり、ストゥーパ信仰が盛んであったり、花や香や演奏でストゥーパに供養する人々がいたり、六波羅蜜(ろくはらみつ)を修行する人がいたり、人けのない荒野、あるいは岩の洞穴に住む人々がいたりなど、さまざまな仏道修行をする人たちの様子が浮かび上がりました。
この、さまざまな仏道修行をする人たちの様子は何を意味するのでしょうか。これは、『法華経』が編纂された当時の仏教界の現状を要約したものであると解釈するとよいでしょう。これから『法華経』を語るにあたって、仏教界の現状はこうですよ、というものを改めて示したわけです。照らし出した方角がなぜ東方だったのかと言えば、『法華経』が編纂されたのはガンダーラを含む西北インドであり、そこからブッダガヤーや鹿野苑(ろくやおん)を見ると東になるからです。仏教の原点である東の方を照らし出して、「現状の仏教界はこうです」と見せつけたと理解すればよいでしょう。
■『NHK100分de名著 法華経』より
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