熱帯雨林の戦場に放り出されたインテリの思考

京都帝大出身のスタンダール研究者、大岡昇平は35歳で招集され、フィリピン戦線に送られます。大岡が復員後に執筆した『野火』では、主人公である「私」(田村一等兵)に大岡自身が投影されています。作家・法政大学教授の島田雅彦(しまだ・まさひこ)さんが、その冒頭を読み解きます。

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■熱帯雨林をさまよう主人公

冒頭、主人公の「私」(田村一等兵)が、いきなり頰を打たれるシーンから始まります。田村は肺病を病み、しかしながら病院から追い出されて部隊に戻ったところ、分隊長から「馬鹿やろ。帰れっていわれて、黙って帰って来る奴があるか。帰るところがありませんって、がんばるんだよ」と怒鳴られるのです。
荒っぽい会話の口調によって、部隊の雰囲気がわかる絶妙な書き出しです。田村は35歳のインテリで、部隊を構成する下士官や同僚の多くは農民か、労働者階級出身です。その部隊に田村は一等兵という下位の階級で配属されるわけですから、徹底的なアウェイ感があったことでしょう。ほとんど中国の文化大革命時に農村に下放(かほう)されたインテリと同じような目に遭ったわけです。
のちに戦争体験記を小説などに残すようなインテリは、部隊で過酷な差別やいじめに遭いがちで、その恨みは戦後、小説で晴らされることになります。たとえば有馬頼義(よりちか)原作の映画『兵隊やくざ』シリーズは、勝新太郎が演じる粗野な兵士と、田村高廣が演じるインテリで論理的な兵士がコンビを組み、陸軍の理不尽ないじめの構造に立ち向かっていく痛快エンタテインメントで、私も少年時代にはまりました。
維新後の日本の軍事を担ったのは旧士族でした。しかし、1873年に徴兵令が公布されたあと、1889年の大改正によって国民皆兵の原則が確立、太平洋戦争期からは学徒出陣、さらには中年の家族持ちでも召集されるようになっていきます。比較的早期に入隊した農民出身の兵士からすれば、軍隊は社会の階級差を逆転できる場たりえたでしょう。上官には絶対服従だけれど、下士官になれば、一兵卒を徹底的に抑圧できる。一般社会では自分たちを下に見てきたような新興ブルジョア、インテリの人たちを殴ることもできたのです。松本清張は軍隊時代に平等感を実感したと証言しています。
さて田村は、分隊長から戦力外通告を出され、病院に帰るか、そうでなければ死ねといわれて部隊を追い出されます。最後にもらったのは六本の芋だけ。いわば6本の芋を退職金として与えられ、追放されたわけです。大岡自身は、ミンドロ島でマラリアに罹って戦線離脱し、捕虜としてレイテ島に送られました。『野火』を書くにあたっては、レイテ島で戦った数少ない友軍兵士の生き残りの証言が元になっています。レイテ島では随所で敗走する日本兵と上陸作戦を展開する米兵との間で戦闘が起こり、隊列は散り散りになっていました。体力があれば戦闘兵として戦いを続行できるが、マラリアや熱帯潰瘍(かいよう)に罹れば、続々と落伍者が増えてゆく。田村の熱帯雨林での彷徨もそのように始まります。
米軍上陸以降は補給路を断たれたので、深刻な食糧難が生じ、飢餓との戦いが始まります。あちこちで白骨化した死体に遭遇し、またその死体が道しるべとなって密林を進むけれども、靴は破れて、ほとんど裸足。重い小銃を捨ててしまう者もいた。生(なま)ものを食べると下痢で体力を奪われるので、調理用の飯盒(はんごう)だけはかろうじてぶら下げている……というような、ほぼ戦闘能力も意欲も消滅している状態です。詳しい状況は『レイテ戦記』にありますが、輜重(しちょう)兵と呼ばれる補給隊が機能している段階はまだいいのです。しかし敵軍は輜重兵の補給路をまず断ち、兵糧(ひょうろう)攻めにするのが定石です。友軍であっても、食糧を持つ輜重兵を狙って、その配給を将校クラスが独り占めしたことや、あるいは砲兵が強盗に変身したことがあったらしい。なぜ砲兵かといえば、重い大砲を引っ張る砲兵は身体壮健な者が多く、撃つ弾がなくなったら、仕事は終了とばかりに戦闘を放棄し、生き残りに賭けることがあったからだそうです。
部隊から放り出された田村は、食糧も乏しいまま、孤独な歩みをつづけます。米兵に出くわすのはむろん、島民との遭遇にも気をつけねばならない。現地人の中には、一見戦闘と無関係な暮らしを営んでいながら、ゲリラとして活動する者もいます。『レイテ戦記』には、現地人も日本兵を捕虜にして差し出せば報奨金がもらえる仕組みがあったことが記されています。

■インテリ田村と「坐せる者等」

ひとり、道なき道を行く田村一等兵ですが、絶望と共に軍隊のくびきから離れることで自由になったという思いを抱いています。「危険が到来せずその予感だけしかない場合、内攻する自己保存の本能は、人間を必要以上にエゴイストにする」という状況の中で食糧集めにも参加できず、冷たく突き放された田村は部隊と病院を往復しながら、内省を繰り返し、自分なりの生存の意味を定義しようとします。
一種陰性の幸福感が身内に溢れるのを私は感じた。行く先がないというはかない自由ではあるが、私はとにかく生涯(しょうがい)の最後の幾日かを、軍人の思うままではなく、私自身の思うままに使うことが出来るのである。
彼はこれからの数日が、人生最後の日々になるだろうという予感を抱きます。向き合う相手は自意識だけというような状況です。孤独にあって、自意識は肥大化していくので、否応なく自己と対話するしかない。自己との対話を継続するうえでは人文学者の教養が重要な役割を果たすのです。田村はジャングルを彷徨いながら、初めて歩く道なのに、自分はもう二度とここを歩かないだろうという奇怪な実感を抱くのです。いわば、デジャヴとは正反対の観念です。
比島の林中の小径を再び通らないのが奇怪と感じられたのも、やはりこの時私が死を予感していたためであろう。我々はどんな辺鄙(へんぴ)な日本の地方を行く時も、決してこういう観念には襲われない。好む時にまた来る可能性が、意識下に仮定されているためであろうか。してみれば我々の所謂(いわゆる)生命感とは、今行うところを無限に繰り返し得る予感にあるのではなかろうか。
このように田村は「死」を抽象的な観念ではなく、極めて具体的な感覚や映像で意識するのです。デジャヴを感じている限り、その人はまだ当分の間は死なないという発見……これも大岡昇平が戦場から持ち帰った悟りの一つです。
■『NHK100分de名著 大岡昇平 野火』より

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