まるで痛快活劇のようなお経、『維摩経』

『維摩経(ゆいまぎょう)』というお経をご存じでしょうか。如来寺住職・相愛大学教授の釈徹宗(しゃく・てっしゅう)さんは、そのユニークさを「まるで痛快活劇を見ているかのようだ」と表現します。

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『維摩経』と聞いても、よほど仏教に興味をもっている方を除けば、ピンとこないのではないでしょうか。早い時期に日本に伝わり、その後の日本仏教に多大な影響を与えた経典として、仏教界では重要なものととらえられています。しかし、その後の主流の仏教宗派の根本経典にならなかったこともあってでしょうか、一般の方たちにとっては意外に馴染みが薄いようです。ところが、実際に読んでみるとわかりますが、これほど面白い経典はなかなかありません。
十年ほど前に『維摩経』についての解説書を書かせていただく機会があり、全編の“超訳”に取り組んだことがあるのですが、訳しながらこのお経の面白さにどんどん引き込まれていきました。なぜなら、他の多くの経典は釈迦(しゃか)が教えを説き、それを弟子たちや菩薩たちが聴聞するスタイルで書かれているのに対して、『維摩経』は「維摩(ゆいま)」という在家仏教信者のおじいさんが教えを説くというユニークなお経だからです。
在家者が仏教を説くという形態も特徴的ですが、このおじいさんのキャラクターがとにかく強烈でした。彼は、お経の中で、それまでの仏教のスタンダードな教義や考え方を根底からことごとくひっくり返していくのです。在家者にとっては尊敬の対象であるはずの釈迦の弟子たちや菩薩たちと維摩が真正面から対峙(たいじ)し、「あなたの言っていること、やっていることは本当に正しいのか」と問い、次から次へとやりこめていくストーリーは、まるで痛快活劇を見ているかのようです。「なんて嫌味なじいさんなのだろう」「このじいさんはいったい何者なのだ」と、心の中でほくそ笑みながら読んでいくうちに、私は全編をあっという間に訳し終えていました。
そんなふうに言うと、『維摩経』は、面白いだけで仏教の本筋から外れた経典であるようにも思われそうですが、そうではありません。よくよく読み込んでいくと、維摩は決して間違ったことを言っているわけではなく、誰よりも仏教というものの本筋をきちんと理解したうえで、出家者たちをかきまわしているのがわかってきます。そのかきまわし方が、また巧妙です。いったん投げ飛ばしたと思ったら、いきなりもとの場所(仏教の基本)に引き戻したり、また遠くに再び投げ飛ばしたり……、一度構築されたものを解体し、また再構築していく作業を延々と繰り返しているとでもいったらいいのでしょうか。読者はいつのまにか維摩の術中にはまり、ぐるぐると行ったり来たりを繰り返しながら螺旋(らせん)状の階段をのぼらされて、ふと気づくと仏教についての理解が深まっているという、なんともよく考えられた構成になっているのです。
今回、数ある大乗仏教経典の中から名著として『維摩経』を取り上げようと考えたのも、私がそのときに味わったドライブ感や面白さを、みなさんにもぜひ体験していただきたいと思ったからです。また、このお経には、成熟した時代に悩みを抱えながら生きている人にとっての「苦悩の世界を生き抜くヒント」が示されていると感じたのも、『維摩経』に注目してもらいたいと思った理由です。
仏教経典というと「俗な暮らしを捨ててストイックに生きろ」とか「成仏した先にはこんな素晴らしい世界が待っている」といったことが書かれていると思われがちですが、『維摩経』にはそのようなことはほとんど書かれていません。大乗仏教の教えをベースに話が展開されているという点では他の大乗経典と変わりませんが、じつはこの経典には、それまで当たり前だと思っていたものを一度解体して、新たな価値観や視点を作り出すための手順、プロセスが示されているのです。現代を生きる私たちは、これまで自分が積み上げてきたものや自分が作りあげた物語に固執し、「自分は常にこうあらねばならない」と思い込んで、逆に人生を生きづらくしてしまってはいないでしょうか。しかし、じつは「自分というもの」を小さくしていけば、もっと楽に生きられるのです。アナーキーで破壊力に満ちた『維摩経』を読むと、今までの自分が壊されていくような感覚を味わうことになります。そしてその先には、今まで気づかなかった扉が見えてきます。その扉を開けた先には、いったいどんな風景が広がっているのか── それでは、維摩じいさんの運転するジェットコースターに一緒に乗り込んで、その風景とやらを見に行くことにしましょう。ゴールまで振り落とされないよう、しっかり安全バーにつかまっていてくださいね。
■『NHK100分de名著 維摩経』より

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