稀代のイノベーター、曹操

曹操が打ち出した人材登用制度や文学運動は、漢帝国の政治や思想までを変容させるほどのインパクトがありました。赤壁の戦いに敗れ、自身の存命中の中国統一が難しくなったと悟った後も、旧弊を打破する新たな手法や仕組みを積極的に考案、実施していきます。早稲田大学 文学学術院 教授の渡邉義浩(わたなべ・よしひろ)さんが解説します。

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赤壁の戦いでの敗戦により、曹操生存中の中華統一は難しいものとなりました。南船北馬という言葉がありますが、曹操は強力な騎兵をすでに手中にしていたものの、中国南部での戦闘においては、水軍なしには戦えないことが明らかになりました。水軍の編成は、船をつくれば終了というわけではありません。水夫や水軍指揮に精通した将を養成しなければならないのです。翌209年には水軍の訓練を行っている曹操ですが、すでに50歳を越えた自分の寿命を考えたときに、曹操は「中国統一は難しい」と認識せざるを得なかったのです。
ここで曹操は、漢および漢を支える儒教と真剣に向き合うことになります。曹操はまず、漢の人材登用制度に異議を唱えました。郷挙里選は「孝」「廉」など、儒教的徳目に適う人間性を前提としていました。これに対し曹操は、210年に出した布告において、「唯才是挙」(才能のみを推挙の基準とせよ)との方針を打ち出しています。曹操自身、もとより人間性よりも才能を重んじる主義でありました。それは素行の悪かった郭嘉(かくか)などを重用したことからも明らかです。しかしこの布告は、明らかに漢と儒教に対する挑戦でした。
続いて曹操は、漢が儒教を文化的価値観の中心に置くことに対し、これまで尊重されなかった「文学」を称揚することで、その相対化を目指します。
具体的には、曹操みずから積極的に文学活動を行い、さらに文学的才能のあった息子の曹丕と曹植(そうち)の周辺に文才溢れる人材を集め、文学サロンを形成させました。とくに曹植は文学において天才的な才能の持ち主で、後に曹丕との間で後継者問題が発生することになります。また、曹操自身の功績や政治方針を積極的に詩に認(したた)め、曲に乗せて唱和させました。
このように、曹操とその息子曹丕・曹植を基軸に展開された、曹操の政治的意図を含む積極的な文化活動の成果を総称して、「建安文学」といいます。そして、曹操の政治的意図に基づく文学の称揚活動は、儒教の側に変革をもたらしました。具体的には、「聖なる漢」「永遠なる漢」を説く教義から、漢から魏への革命を容認する方向へと変化していったのです。こうして、曹操死後への準備として始まった儒教への挑戦は、一定の成果を生むことになりました。
曹操は、屯田制など政治家としての革新性や、軍事指揮官としての有能さに目が奪われがちです。しかし、文学者としても一流で、さらにその文学を政治にきっちり利用しているという点においても、類まれな人物であったことがお分かりいただけると思います。
■『NHK100分de名著 陳寿 三国志』より

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