言葉の結晶としての恋

古代より、恋する心は短歌に詠み継がれてきました。「未来」選者の黒瀬珂瀾(くろせ・からん)さんが、研ぎ澄まされた表現力が魅力の一首を紹介します。

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恋を詠んだ和歌や短歌のことを相聞歌(そうもんか)、と呼ぶことがあります。思えば、上代から現代まで、数限りない相聞歌が詠み続けられてきました。特に王朝和歌などは、そのメインは相聞歌という印象を抱く人も多いでしょう。例えば藤原定家が選んだとされる『百人一首』も、恋の歌が四割を占めます。どうしてそんなに「恋」が歌詠みの心を捉えるのでしょうか。
歌人の馬場あき子さんは『百人一首』の恋の歌について〈恋が成就した歌は一首もない〉とした上で、〈「恋」という題の場をかりて、表現への自負のほかに、主題としては求めて得られぬものへの思いや、失意や、怨みなど、むしろ人生的な詠嘆の重なるものでさえあった〉と仰っています(『馬場あき子の「百人一首」』NHK出版)。つまり、昔の歌人たちにとって「恋」とは、何かを希求する心の象徴だったのかもしれません。だとしたら、恋の歌がたくさん生まれるのももっともです。
古来、詩人は、求め得ぬものへの憧れを秘めてきました。それは好きな人の愛情だけではありません。例えば、永遠の安らぎ、平凡な日常からの脱却、究極の詩の言葉……。それらを求める心もまた、「恋の歌」として昇華されてきたのです。
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへばしのぶることの弱りもぞする

式子内親王(しょくしないしんのう)


『百人一首』から挙げました。式子内親王は12世紀後半の人です。わが命よ、絶えるなら絶えろ、このままながらえていると恋を忍ぶ力が衰えて、隠していた恋心がばれてしまいそうだから、という情熱的な歌ですが、「絶えなば絶えね」の繰り返しが実に印象的で、修辞もとても凝っています。しかしこの一首、恋の歌とは言っても、思いを遂げたいという歌ではありません。むしろ逆で、この歌は「忍恋(しのぶるこい)」という題に応じて詠まれました。私の恋心は誰にも、もちろん、愛しく思うその当人にも知られたくない。いうなれば、私の恋は決して叶いませんように、という反情熱的な思いを実に情熱的に詠んだ、矛盾した歌です。そこがこの歌の美しいところで、純粋な詩的イメージとしての恋を求めた歌と言えましょう。つまり、歌の中では、言語美の結晶としての恋が生まれるのです。
■『NHK短歌』2017年5月号より

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