嫉妬こそ悪魔に相応しい属性である

小林秀雄らが創刊した雑誌「文学界」で、哲学者の三木清(みき・きよし)は1938年から4年間に渡って断続的にエッセイを掲載しました。これらを一冊にまとめたものが『人生論ノート』です。「嫉妬」について論じた章で三木は、フランシス・ベーコンにならい、これを「悪魔に最もふさわしい属性」だと非難しました。哲学者の岸見一郎(きしみ・いちろう)さんが読み解きます。

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どのような情念でも、天真爛漫(てんしんらんまん)に現われる場合、つねに或る美しさをもっている。しかるに嫉妬には天真爛漫ということがない。愛と嫉妬とは、種々の点で似たところがあるが、先(ま)ずこの一点で全く違っている。即(すなわ)ち愛は純粋であり得るに反して、嫉妬はつねに陰険である。
愛と嫉妬に共通するのは、どんな情念よりも「術策的」で「遥(はる)かに持続的」な点です。持続するから、そこに術策が入り込む余地が生まれ、術策が入り込むことで、ますます持続する。他の情念はそんなに長続きしないので、愛や嫉妬ほどは人間を苦しめない、というのが三木の考察です。
さらに、「烈(はげ)しく想像力を働かせる」のも両者に共通の特徴だと言います。
想像力は魔術的なものである。ひとは自分の想像力で作り出したものに対して嫉妬する。
ただし、嫉妬が想像力を働かせるのは、そこに混入する「何等かの愛に依(よ)って」であり、そもそも愛がなければ嫉妬の感情は湧かないとも語っています。冒頭で強く非難したわりに、嫉妬を完全に否定はしていないのです。
では、人はいかなるものに対して嫉妬するのでしょうか。その条件を、三木はかなり具体的に挙げています。
まず、嫉妬の対象となるのは、自分より高い地位にある人、自分よりも幸福な状態にある人。しかも、自分とその人との間に何かしら「共通なもの」があり、自分とその人との差異が「絶対的でなく、自分も彼のようになり得ると考えられる」場合に起こると言っています。オリンピック選手やノーベル賞学者のように飛び抜けて優れた人、あるいは全く畑違いの人に嫉妬したりはしないということです。
また、嫉妬は「量的なもの」「一般的なもの」に対して働き、特殊なものや個性的なものは対象にならないとも指摘しています。しかも、嫉妬は「自分を高めようとすることなく、むしろ彼を自分の位置に低めようとするのが普通」で、「平均化を求める傾向」があると言います。自分よりも高いものに憧れ、自分を高めようとする愛とは対照的──。この辺りの記述は、成功と幸福との違いについて語った断章とも符合します。
同じ職業の者が真の友達になることは違った職業の者の間においてよりも遥かに困難である。
この「嫉妬について」が掲載される3カ月前に三木は『哲学入門』を刊行し、驚異的ベストセラーを記録しています。当時、彼は在野の哲学者として活躍していましたが、もしかするとアカデミズムの世界の人から妬(ねた)まれ、足を引っ張るようなことをされていたのかもしれません。
平均化を求める傾向のほかにも、三木は嫉妬の特徴を「出歩いて、家を守らない」「つねに多忙である」などと表現しています。嫉妬する人は、つねに嫉妬のネタを探し回っていて、決して落ち着くことがない。「嫉妬の如く多忙で、しかも不生産的な情念の存在を私は知らない」。実に巧みな比喩だと思います。非生産的で心を惑わす嫉妬。消し去るには、一体どうすればよいのでしょう。
三木は「嫉妬は他を個性として認めること、自分を個性として理解することを知らない」「自信がないことから嫉妬が起る」と言います。
例えば、結婚前のカップル。本当は愛されているのに、自信がないと「もしかすると本当は愛されていないのではないか」「いつかライバルが現れるのではないか」と不安にかられる。その不安が想像力を働かせ、愛されていない証拠を探すことに心を忙しくしてしまうのです。
自信は如何にして生ずるのであるか。自分で物を作ることによって。嫉妬からは何物も作られない。人間は物を作ることによって自己を作り、かくて個性になる。個性的な人間ほど嫉妬的でない。個性を離れて幸福が存在しないことはこの事実からも理解されるであろう。
■『NHK100分de名著 三木 清 人生論ノート』より

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