宮沢賢治の「心象のスケッチ」とは

宮沢賢治の最もよき理解者であった2歳下の妹トシは、24歳のときに肺結核でこの世を去りました。献身的に看病をしてきた賢治は、妹の死を目の当たりにして押入の中に頭をつっこみ号泣したといいます。「永訣(えいけつ)の朝」「松の針」「無声慟哭(どうこく)」のトシ臨終三部作が収録されている『春と修羅』は詩集だと思われがちですが、賢治はこれを「心象のスケッチ」と呼びました。日本大学芸術学部教授の山下聖美(やました・きよみ)さんが「心象スケッチ」の意味を考察します。

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トシ臨終三部作は『春と修羅』に収録されています。童話集『注文の多い料理店』刊行と同じ大正十三(1924)年、こちらはひと足先に自費出版で刊行されました。費用は父・政次郎が出したと言われています。
『春と修羅』は多くの人が「詩集」だと認識していますが、賢治自身は、これを詩集とは考えていませんでした。友人の森佐一に宛てた手紙で、賢治は次のように述べています。
前に私の自費で出した「春と修羅」も、亦それからあと只今まで書き付けてあるものも、これらはみんな到底詩ではありません。私がこれから、何とかして完成したいと思って居ります、或る心理学的な仕事の仕度に、正統な勉強の許されない間、境遇の許す限り、機会のある度毎に、いろいろな条件の下で書き取って置く、ほんの粗硬な心象のスケッチでしかありません。

(大正十四〈一九二五〉年二月九日 森佐一あて封書)



賢治はきっぱりと、これは「詩」ではなく「心象のスケッチ」だと述べています。
では、「心象スケッチ」とは何でしょうか。賢治の言う「心象スケッチ」とは、ただ単に一人の人間の心のうちを描くという意味ではないようです。心象とは、宇宙や無限の時間につながるものであり、人間の心象を描くということは、個人的なものを超えて普遍的なものをスケッチすることだと賢治は考えていました。
『春と修羅』の「序」で賢治はこう記しています。
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
 
これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケツチです
一見難解でとっつきにくいこの「序」については、これまであまたの研究・解釈がなされてきました。ここでは、冒頭の「わたくしといふ現象」という言葉と、この「序」で主張されている賢治の芸術観について触れておきたいと思います。
近代の作家たちは、多かれ少なかれ「私とは何か」という問題に悩んでいました。英語の一人称は「I」ですが、それは「汝と我」という(キリスト教文化圏の)神との関係における「わたくし」に根ざしています。一方、日本人には確固とした神との関係がなく、一人称も「僕」「俺」「わたし」と複数存在します。その中で「私とは何か」という西洋近代的な命題を考えなければいけないというところで、作家たちの多くは「わたくし病」に取り憑(つ)かれていきます。
賢治もそうした時代の流れに影響されているとも言えますが、「わたくし」ではなく「わたくしといふ現象」と言っているところがやはり特殊です。「わたくし」は現象にすぎず、本質は別であるというのです。つまり、「わたくし」を「照明」のように明滅させている電気エネルギーのような何かの力があり、それとつながっているからこそ「わたくし」は「風景やみんなといつしよに」「ともりつづける」ことができるのです。賢治は、「わたくしといふ現象」を深く深く考えることは、この世、そして宇宙を司(つかさど)る何かの力と結びついていくことだと考えました。心象をスケッチする、すなわち自分の心を言葉で書くということは、宇宙の真理を探求することにつながるのだということです。自分の心の奥へ奥へと向かっていけば、広い宇宙へとつながるのです。
そして、「序」はこう結ばれます。
すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます
第四次(元)とは「時間」のことです。自分の芸術は第四次元を背景にしていると述べるということは、賢治は常に時間軸を意識していたということを意味します。この現世だけに受け入れられるものではなく、四次元で生き残れる、どの時代においても新たに生まれることができるような芸術─広い宇宙とつながる自分の心を言葉で書き表した心象スケッチは、そのようなものであるというのです。地質学を専攻した賢治は、いつも鉱石などを見て太古からの時間を体感していました。そのことによって、私たちが住む三次元の世界だけでなく、時間軸を加えた四次元の世界を強く感じることができたのかもしれません。
■『NHK100分de名著 宮沢賢治スペシャル』より

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