忘れたくても忘れられない──工藤紀夫九段の「悪夢の一手」
- 撮影:小松士郎
棋士の間で人望の厚い工藤紀夫(くどう・のりお)九段。37歳で王座、57歳で天元を獲得という心引かれる戦績の中、ご本人は「いい手は思い出せなくて」とのこと。今シリーズ初めて、敗着の「一手」を語っていただくことになりました。
* * *
■生涯でいちばん好成績の年に
私は、「会心の一局」というものは思い当たらず、つらい負け方をした、思い出したくない対局ばかり思い出すのですね。今回は、その中のナンバーワンを選びました(笑)。最近ようやく忘れたのですが、また思い出させていただきまして。
39年前のNHK杯で、お相手は杉内雅男先生でした。杉内先生は、私の院生時代の師範です。院生当時は私も子どもでしたから「怖い先生だな」という印象が強いですが、謹厳実直と言いますか、近寄りがたい存在でしたね。先生には「碁の神様」というニックネームがありますけれど、若いころから神様という感じでした。私とはちょうど20歳離れていまして、この対局から約40年たっているわけですが、今も現役で打ち続けられておられます。棋士のかがみのような先生ですね。
この対局が打たれた1977年というのは、私の生涯でいちばん成績がよかった年なんですよ。初めてのタイトルの王座を取りまして、名人戦と本因坊戦の両リーグにも入りましたし、勝率も8割だったと思います。
ところが、その生涯最高の年に悪夢の一局があったということですね。実際に、この碁は夢にもよく出てきました。最終局面が頭の中に浮かんできて、冷や汗を流して…そして目が覚める。ようやく忘れたところですけれども(笑)。
杉内先生とは、この対局までは1勝1敗だと記憶しています。この年はよく打てていたこともあり、この対局も、序盤、中盤と好調に打ち進めていました。全く覚えていませんが、終局に近くなり、勝ちを意識していたかもしれません。
ただ、秒読みになると、何をやるか分からないですね。ご覧になる方も「なるほど、ひどい」と思われることでしょう。40年も前のことですが、当時の私の頭に血が上った感じをご想像ください。
局面図が、お話しした、私の夢に何度も出てきた場面。私が白番で とコウを取り、黒が とコウダテを打ってきたところです。
次に、白はAと を取り、黒がBとコウを取り返すのは当然。この白Aは何も考えずに打てますが、その時間を利用して、私は、その次にどう打とうかと考えていました。もう少し正確に言いますと、目算をしていました。
少し前からこの場面に至るまで、コウを黒に譲って勝てるかどうか、ずっと地の計算をしていたわけです。でもNHK杯です。30秒の間に計算しようという試みは、私の場合やめておいたほうがよかったのかもしれません。
1図の黒215まで、私は形勢は白がよいと思っていたはずです。でも、2図の白16(白216)が、私の悪い癖と言いますか、やり過ぎと言いますか。コウを仕掛けてしまったのです。
何もしないで勝っているのですから無用の仕掛けですし、コウダテも圧倒的に黒が多いのですから、「何をやっているのだ」という感じですね。
打っていても動揺しました。自分で仕掛けておいて謝るのは非常に悔しいのですが、コウを続けてもしかたがないので、白32とツギました。「えらい失敗をしてしまったけれど、まだ1目の損で済むかな」と思ったのですね。でも、黒が16にツイでくれれば、の話です。ここで杉内先生は、3図の黒33と頑張ってこられました。7目くらいの大きな手です。当然ですね。黒34では黒の負けですから。
白16と仕掛けて動揺し、ここでコウを継続されて、もう一回動揺したわけです。「1目の損ならまだ勝ちだ」と思っていましたが、もう想定外のことになってしまいましたから。
すでにその前から頭に血が上っているかもしれませんけれども、本格的に上ってきたという感じで(笑)、慌ててまた目算を始めました。「しまった」というよりも「これで本当に負けにしたか」という思いでしたね。
白34からコウを取ったり取られたりしている間、秒を読まれながらずっと目算を続けているのですね。黒53が打たれたときに、目算が終わって、「まだ負けていない」と思ったはずです。「よし勝った」と思って打ったのが、4図の白54です。
おかしいですね。誰が見ても。頭の中では5図の白1、黒2が打ってあるものとして打ったのですが、実際には打ち忘れていた。
まあ、そういうこともありますよね。他の人にはないと思いますけど(笑)。
続いて、黒55と右辺の白三子を抜かれたとき、当時は和室対局だったのですが、私は驚いて、座布団から5センチくらい飛び上がったような気がします。当時の映像は残っていないそうなので、見ることはできませんが。杉内先生も神様とはいえ、驚かれたんじゃないでしょうかね。
■碁がますます面白くなってきた
この対局のあと、計算しないほうがいいなと思うようになりました。でも、しないわけにはいかないのですよ。だから、やはりしますね。しかたがないですよね。
この年から20年たって天元を取ったときは、皆さんもびっくりされたでしょうが、私もびっくりしました。20年ごとに好調の波がやってくると言われ、来年がその20年目に当たるのですが、もう全く無理ですね、残念ながら(笑)。
今は楽しく、自分なりにやりたい手を思ったように打つ。そうしたいと思っています。碁は勝とうと思うと苦しい。負けてもいいと思っていますから、つらい部分がなくなってきました。ただ、あまり楽しんでいると勝てませんけれど。それでも、そういう意味で碁がますます面白くなってきたという心境です。
それから、まだこの年になっても、打ってみたい手が2、3あります。今まで誰も打っていないけれど自信のある手です。楽しみなのですが、ただ、なかなか実現しないのですね。そのマル秘の手を繰り出せる局面が、これからできればいいのですが。
※この記事は9月25日に放送された「シリーズ一手を語る工藤紀夫九段」を再構成したものです。
■『NHK囲碁講座』2016年12月号より
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■生涯でいちばん好成績の年に
私は、「会心の一局」というものは思い当たらず、つらい負け方をした、思い出したくない対局ばかり思い出すのですね。今回は、その中のナンバーワンを選びました(笑)。最近ようやく忘れたのですが、また思い出させていただきまして。
39年前のNHK杯で、お相手は杉内雅男先生でした。杉内先生は、私の院生時代の師範です。院生当時は私も子どもでしたから「怖い先生だな」という印象が強いですが、謹厳実直と言いますか、近寄りがたい存在でしたね。先生には「碁の神様」というニックネームがありますけれど、若いころから神様という感じでした。私とはちょうど20歳離れていまして、この対局から約40年たっているわけですが、今も現役で打ち続けられておられます。棋士のかがみのような先生ですね。
この対局が打たれた1977年というのは、私の生涯でいちばん成績がよかった年なんですよ。初めてのタイトルの王座を取りまして、名人戦と本因坊戦の両リーグにも入りましたし、勝率も8割だったと思います。
ところが、その生涯最高の年に悪夢の一局があったということですね。実際に、この碁は夢にもよく出てきました。最終局面が頭の中に浮かんできて、冷や汗を流して…そして目が覚める。ようやく忘れたところですけれども(笑)。
杉内先生とは、この対局までは1勝1敗だと記憶しています。この年はよく打てていたこともあり、この対局も、序盤、中盤と好調に打ち進めていました。全く覚えていませんが、終局に近くなり、勝ちを意識していたかもしれません。
ただ、秒読みになると、何をやるか分からないですね。ご覧になる方も「なるほど、ひどい」と思われることでしょう。40年も前のことですが、当時の私の頭に血が上った感じをご想像ください。
局面図が、お話しした、私の夢に何度も出てきた場面。私が白番で とコウを取り、黒が とコウダテを打ってきたところです。
次に、白はAと を取り、黒がBとコウを取り返すのは当然。この白Aは何も考えずに打てますが、その時間を利用して、私は、その次にどう打とうかと考えていました。もう少し正確に言いますと、目算をしていました。
少し前からこの場面に至るまで、コウを黒に譲って勝てるかどうか、ずっと地の計算をしていたわけです。でもNHK杯です。30秒の間に計算しようという試みは、私の場合やめておいたほうがよかったのかもしれません。
1図の黒215まで、私は形勢は白がよいと思っていたはずです。でも、2図の白16(白216)が、私の悪い癖と言いますか、やり過ぎと言いますか。コウを仕掛けてしまったのです。
何もしないで勝っているのですから無用の仕掛けですし、コウダテも圧倒的に黒が多いのですから、「何をやっているのだ」という感じですね。
打っていても動揺しました。自分で仕掛けておいて謝るのは非常に悔しいのですが、コウを続けてもしかたがないので、白32とツギました。「えらい失敗をしてしまったけれど、まだ1目の損で済むかな」と思ったのですね。でも、黒が16にツイでくれれば、の話です。ここで杉内先生は、3図の黒33と頑張ってこられました。7目くらいの大きな手です。当然ですね。黒34では黒の負けですから。
白16と仕掛けて動揺し、ここでコウを継続されて、もう一回動揺したわけです。「1目の損ならまだ勝ちだ」と思っていましたが、もう想定外のことになってしまいましたから。
すでにその前から頭に血が上っているかもしれませんけれども、本格的に上ってきたという感じで(笑)、慌ててまた目算を始めました。「しまった」というよりも「これで本当に負けにしたか」という思いでしたね。
白34からコウを取ったり取られたりしている間、秒を読まれながらずっと目算を続けているのですね。黒53が打たれたときに、目算が終わって、「まだ負けていない」と思ったはずです。「よし勝った」と思って打ったのが、4図の白54です。
おかしいですね。誰が見ても。頭の中では5図の白1、黒2が打ってあるものとして打ったのですが、実際には打ち忘れていた。
まあ、そういうこともありますよね。他の人にはないと思いますけど(笑)。
続いて、黒55と右辺の白三子を抜かれたとき、当時は和室対局だったのですが、私は驚いて、座布団から5センチくらい飛び上がったような気がします。当時の映像は残っていないそうなので、見ることはできませんが。杉内先生も神様とはいえ、驚かれたんじゃないでしょうかね。
■碁がますます面白くなってきた
この対局のあと、計算しないほうがいいなと思うようになりました。でも、しないわけにはいかないのですよ。だから、やはりしますね。しかたがないですよね。
この年から20年たって天元を取ったときは、皆さんもびっくりされたでしょうが、私もびっくりしました。20年ごとに好調の波がやってくると言われ、来年がその20年目に当たるのですが、もう全く無理ですね、残念ながら(笑)。
今は楽しく、自分なりにやりたい手を思ったように打つ。そうしたいと思っています。碁は勝とうと思うと苦しい。負けてもいいと思っていますから、つらい部分がなくなってきました。ただ、あまり楽しんでいると勝てませんけれど。それでも、そういう意味で碁がますます面白くなってきたという心境です。
それから、まだこの年になっても、打ってみたい手が2、3あります。今まで誰も打っていないけれど自信のある手です。楽しみなのですが、ただ、なかなか実現しないのですね。そのマル秘の手を繰り出せる局面が、これからできればいいのですが。
※この記事は9月25日に放送された「シリーズ一手を語る工藤紀夫九段」を再構成したものです。
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