食事をつくることも修行である

若き日の道元は、「人間にはもともと仏性がそなわっているのに、わたしたちはなぜ修行をするのか」という問いを胸に抱き、仏法を学ぶために宋へ渡りました。宋の禅宗寺院において彼が体験し感激したことは、禅仏教というものが「生活禅」だということの発見です。僧堂で坐ることだけでなく、日常生活のすべてが修行だということへの気づきです。これについての道元の体験の一つが、『典座教訓(きょうくん)』に記されています。仏教思想家のひろさちやさんと共に読み解いてみましょう。

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道元が日本から宋にやって来て、慶元(けいげん)府(寧波〈ニンポー〉)の港に着いたばかりのころです。一人の老僧が日本産の桑の実(一説では椎茸)を買い求めて船にやって来ました。この老僧は典座といって、禅寺で台所をあずかる僧です。道元にとっては中国に来てはじめての仏教僧との出会いですから、彼はやや興奮気味。老僧にお茶を差し上げ、いろいろと質問をしました。
老僧の答えるところによると、彼は六十一歳。各地の道場で修行をし、先年、阿育王寺(あいくおうじ)に入り、昨年、そこの典座職に任命されました。明日、特別な説法があるので、修行僧たちにおいしいものを食べさせたいと、日本産の桑の実(あるいは椎茸)を買いに来ました。
道元は僧ともっと話がしたいと思い、「今晩はご供養しますからどうぞここに泊まってください」と言います。すると老僧は、「わたしは明日の食事の支度をしないといけないから帰ります」と言う。道元は、阿育王寺といえば立派なお寺だから、食事係など何人もいるはず、あなた一人がいなくても困らないに違いない、あなたのような老齢の方がなぜ典座職のような雑務をやっているのか、と畳みかけます。すると老僧は、「あなたは修行の何たるかが分かっていないようだ」と大笑いしたと言います。
食事をつくることも修行である。若き日の道元には、まだそれが分かっていなかったのです。当時の道元は、僧堂という特殊な空間に身を置いて、悟りを得るという目的のために坐禅に邁進(まいしん)することが修行だと思っていました。「○○のために」という政治的発想をまだ持っていたわけです。ところが、悟りに至った境地から見れば、食事をつくることも食べることも、すべてが修行なのです。何のために生きるのかではない。生きていることが修行なのです。
禅でよく使われる言葉に「喫茶去(きっさこ)」(お茶を召し上がれ)があります。一杯のお茶を飲む。それも修行なのだということです。このように、生活そのものを修行にすることで、わたしたちはあらゆる機会において仏性を活性化させることができます。
みなさんも普段の仕事で、こんなことがあるでしょう。同僚が急に休んで仕事のしわ寄せが自分にくる。「なんで俺がやらないといけないのか」と思うに違いありません。でも、時節因縁です。そのときその仕事をやらないといけないのであれば、それをやればよいのです。それも修行なのです。それをやることは、わたしたちの仏性を活性化する行為である。そんなふうに思ってほしいと思います。
宋で修行の何たるかを理解して帰国後、永平寺に移ってから道元が力を入れたのは、出家をして修行を行うプロの仏教者の養成でした。在家者の手本となるべき出家者の修行のあり方について、道元は「洗浄(せんじょう)」の巻にそのマニュアルを詳しく記しています。爪を切れ、長髪にするな、に始まり、排泄(はいせつ)行為やそのあとの手の洗い方まで、その内容は非常に具体的で、多岐にわたっています。
■『NHK100分de名著 道元 正法眼蔵』より

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