「チクン、百万円持っているか!」──豪放で繊細だった藤沢秀行先生の思い出

イラスト:石井里果
『NHK 囲碁講座』の連載『趙治勲名誉名人のちょっといい碁の話』。10月号では藤沢秀行名誉棋聖との忘れ難い思い出を綴ります。

* * *

思い出話を聞いてください。読者の皆さんは、恐らく豪快なイメージを抱かれていると思います。豪放らいらくというのかな? 棋風もそんなふうに捉えられることが多いようです。
思い出はたくさんあります。あるとき電話がかかってきて、いきなりこう聞かれました。「チクン、百万円持っているか!」。そのころはまだ若かったとはいえ、碁に勢いが出てきた時期だったので「はい、ありますよ」と。するとね、「すぐに持ってこい!」って。どういう結末を迎えるか、想像できますよね(笑)。指定された場所へ行くと知らない顔が二人…。ぼくがお金を先生に渡すとすぐにポンと知らない人へ。そう、借金の取り立てです。このあとの先生のセリフは豪快でした。
「見てみろ、俺にはこのくらいの金、すぐに持ってくるやつがいるんだ!」
ただね、豪快なエピソード、思い出はこれくらいしかありません。実はね、秀行先生は繊細なんですよ。
先生が棋聖を連覇しているころだったかなあ。不戦敗したのを知りました。心配になったのでご自宅まで訪ねていくと、酔っ払ってた(笑)。酔って日本棋院まで行けなかったらしいです。
このあとも先生らしい。「せっかく来てくれたんだ、酒でも飲んでいけ!」と譲らない。ただし、豪快なのはここまでです。
夜も更けて、帰りますと告げると、「じゃあ駅まで送ってやろう」と先生。でも、いざ駅までくると今度は千鳥足の先生が心配でなりません。「家まで送りますよ」とぼく。先生はうれしそうに「お、そうか」と言って、逆戻り。何度繰り返したことか。酔っていたとはいえ、あきれますよね(笑)。
いちばんの思い出は50年近く前のことになります。先生が都内に、代々木だったかなあ、事務所を構えていました。不動産関係の仕事だったと思います。本業は棋士ですからお客さんもそんなに集まるわけもなく(笑)、まあ開店休業状態でした。ただ、悪いことばかりじゃない。その分、事務所には棋士が集まるようになってね。研究会みたいな雰囲気でした。いつ行っても7、8人はいたなあ。先生は当時から来る者拒まずの姿勢でした。
日中はずっと不動産の事務所で碁の勉強。夜になると1人、2人と帰っていき、最後は先生とぼくだけになることがほとんどでした。するとね、必ず掃除を始めるんです。ほうきで掃くだけじゃなく、床を雑巾がけするんですよ! 信じられますか? それも、ぼくに「手伝え」とか「やれっ」て言ったことは一度もありません。たまに机やいすに頭をぶつけて「イテテ!」って叫んでましたけど(笑)。
先生には深い読みがあったのかもしれません。だって、そうなったら手伝わないわけにいかないでしょ? 後年、ぼくも弟子の前で、雑巾がけをあえて一人でしたことがあります。もちろん、手伝ってくれるのを期待してね。でも、失敗に終わりました。弟子たちに、「ここも汚れていますよ」とか「そこはもう一回拭かないと!」とか言われちゃって(笑)。
秀行先生はソウ・クンゲン(曺薫鉉・九段)さんが好きでした。日本で修業していましたが兵役で韓国に戻ることに。才能、人柄にほれ込んでいたのでしょう。お酒に酔うとクンゲンさんの話ばかり。「早く日本に戻ってこい!」とよく言っていました。
お酒が回ってくるとぼくをクンゲンさんと間違えちゃってね(笑)。「ぼくはチクンです」と言っても通じない。もう面倒くさくなって最後は「はい、ぼくはクンゲンです」って答えていました。酔い潰れる瞬間は必ず「クンゲンに会いたい」って言ってたなあ。これには嫉妬しましたね、正直。
温かい面、厳しい面、そしてハチャメチャな面、そういうのが混ざり合った棋士でした。思い出、いっぱいです。
■『NHK囲碁講座』2016年10月号より

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