本質に眼を向ける

基本的には無為静寂で孤独な世界を好んだ良寛であったが、風流や仏道について語りあう友も何人か持っていた。しかし、世俗にどっぷり浸かっていたわけではない。龍宝寺住職の中野東禅(なかの・とうぜん)氏が、良寛の持つ世俗の人々とも他の僧とも違った独自の世界観、価値観を表すエピソードを紹介する。

* * *

ある若い僧が旅の途中の茶屋でお茶漬けを食べていたときのことです。一人のぼろ衣をまとった乞食坊主がそこに訪れます。乞食坊主は茶屋の婆さまと顔なじみと見えて、「今日はあいにく何もなくて、ニシンの煮物だけしかないのだけど」と婆さまが言うと、坊主は「それで十分です」と言って、平気でニシンを食べ始めたそうです。それを見た若い僧は、「生臭ものを平気で食べるような、こんな坊主がいるから仏法は廃れるのだ」と心の中でつぶやきます。
若い僧はその日の晩、近隣の農家に頼み込んで泊めてもらうことになりましたが、相部屋になったのが先ほどの乞食坊主でした。蚊帳(かや)を吊った中で眠ろうとしたものの、蚊帳に穴があいていたため、若い坊主はなかなか寝られません。ところが隣の乞食坊主は、蚊に刺されても平気でぐっすり寝ています。朝になって若い僧が乞食坊主に「夕べは蚊がいてなかなか寝ることができませんでしたが、御僧(ごそう)はよく平気で眠れましたね」と尋ねたところ、乞食坊主は「なあに、ニシンが平気で食べられるようになれば眠れますよ」と答えたそうです。この乞食坊主がじつは良寛だったのです。
他愛もない話に聞こえるかもしれませんが、これは「僧たるものかくあるべし」という、形や規制だけにこだわることへの皮肉ととらえていいでしょう。
生涯身を立つるに慵(ものう)く、騰々(とうとう)、天真(てんしん)に任(まか)す。嚢中(のうちゅう)、三升の米、炉辺(ろへん)一束(いっそく)の薪(たきぎ)。誰か問わん迷悟(めいご)の跡(あと)、何ぞ知らん名利(みょうり)の塵(ちり)。夜雨(やう)、草庵(そうあん)の裡(うち)、双脚(そうきゃく)、等閑(とうかん)に伸(の)ぶ。
(一生、立身にはやる気がなく、自由に遊び歩いて心のままに任せてきました。頭陀袋(ずだぶくろ)の中には三升の米があり、囲炉裏には一束の薪があります。だれかが悟りについて質問したら言いましょう、面子だとか利益などという塵がどこにあるのですかと。夜の雨が降る草庵の中で、二本の足をのんびり伸ばしているだけです)
この詩を読むと、良寛が生涯寺に入らなかった理由や、平気でニシンを食べた理由がわかります。表層的なルールや形にこだわることなく、ものごとの根底にある「本質」の部分にのみ、良寛は眼を向けていたのです。もちろん、それは仏教の教えや人々の宗教心、僧の存在を否定することではありません。ただ、形式や立場で自己を飾り、立場を守ろうと考えている人への批判的な眼を持っていたのは確かでしょう。
こうした人間に対する批判の眼は、修行以前からすでに良寛の中にあったものと思われます。三峰館時代には老荘思想を学んでいたはずです。『荘子』は人間のあり方を論じた書物で、人間批判論もその中に含まれています。さらに名主見習いの時代に、利権争いや人間の薄汚い部分をさんざん目にしたことで、立場や地位にこだわることの愚かさも感じていたのではないでしょうか。そうした経験の中で、自然に人を批判的に見る眼が養われていったのです。また前回、「乞食行脚を体験する中で世の中のルールなどどうでもよくなっていった」という私の体験談をお話ししましたが、良寛の価値観には行脚時代の経験も大きく影響していたと思われます。
そうはいっても良寛は、自分の価値観を無理に人に押し付けたりはしません。誰かに説教するわけでもないし、間違っていてもそれを否定するのではなく、すべてを許す寛容さ、慈悲深さを持っていました。人間に対する「批判眼」と「許しの眼」を同時に持っていたのが良寛ならではの魅力であり、それが彼の思想をつかみどころのない深いものとしている理由であるように私には思えます。
■『NHK100分de名著 良寛詩歌集』より

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