二十五世本因坊治勲が大嫌いだった張栩九段を好きになった瞬間
- イラスト:石井里果
『NHK 囲碁講座』の連載「二十五世本因坊治勲のちょっといい碁の話」。師匠・木谷實九段、呉清源九段の思い出から、石田章九段へのジェラシー、王立誠九段に対する恨み言まで、趙治勲(ちょう・ちくん)二十五世本因坊ならではの語り口で紡がれるエッセイは、碁界においてのみならず、広く人気を博しています。
12月号では、今年拠点を台湾に移した張栩(ちょう・う)九段に厳しくも温かいエールをおくります。
* * *
張栩さん(九段)のことはね、簡単に言っちゃえば好きです。その彼が住居を故郷の台湾に移し、手合のときに日本に戻ってくることを決断した。今月は正直にぼくの気持ちを記しておきたいと思います。
ま、堅苦しい話になる前に、彼を好きになったエピソードを紹介しましょう。初めは大嫌いだった。なぜかって、ぼくをボコボコに負かすから。何年か負け続けた時期もあったほどです。内容的には勝っていたものもあったんだけど、最後にきっちり逆転されちゃう。ブン殴ってやろうかと思ったですよ(笑)。ただ、その中の一局にとても印象的な出来事がありました。
早碁棋戦だったと記憶しています。ぼくの反則負けでした。終盤、コウを争っていて、近くにもコウの形があった。秒を読まれているうちにだんだん混乱してきてね。確か打っちゃいけないところに打って相手の石を抜いたんだったかなあ。当然、その時点でぼくの負けは確定です。
通常は「負けました」と言わなければいけないんだけど、ボーッとして何も考えられなくなっちゃったんだ。そしたら記録係だったか、プロデューサーだったか、どう対処していいか分からなくなったんだろうね。立会人を呼んだんだ。そしたら張栩さんがぼくにこう言ってきたんです。
「碁は終わりです。先生の反則負けです」
そのとき、はっと気付いた。我に返ったというのかな。そこでようやく「反則負け」を認めることができました。
彼の優しさを感じました。立会人を呼んでガタガタするのが失礼だと思ったんだね。だから立会人が来る前に解決しようとした。ぼくに恥をかかせないためにね。普通は言えないよ。彼はぼくより20 以上も年下。立会人から宣言してもらえば済むことなんだから。好きになったねえ、一瞬で。
張栩さんは局後の感想戦でもぼくに勝たせてくれない。それにも腹が立っていたんだけど、この反則負けの一件以来、印象が変わってきてね。もしかしたらぼくを鍛えようとしているんじゃないかと。「ぼくの感想を漏らさず聞いて、少しでも強くなってください」って言っているような。いや、言葉にするとやっぱり腹立つなあ(笑)。
さて本題。張栩さんが台湾へ拠点を移すという決断を妻の泉美さん(六段)は二つ返事でOKしたと聞きました。彼女は母の禮子(れいこ)さん(七段)と同じく、愛する人のためなら何でも受け入れる。光一さん(小林名誉三冠)も娘夫婦の決断を応援すると…。でもぼくは、全面的には賛成できません。
張栩さんは井山さん(裕太・棋聖)に負けて苦しんでいる。でも、本当はまだ負けたとは言えない。タイトル戦で何回かやられただけでしょ? しばらくは台湾から日本へ通うスタイルで気分を一新するのもいい。ただし、必ず帰ってくること。あなたを強くしたこの日本に。そして井山さんと雌雄を決してほしい。で、井山さんを吹っ飛ばせ! それでこそ真のライバルです。そのあとは2人で世界ですよ。ライバルはね、とことん戦ってからそう呼ばれるもの。張栩・井山はそこまで戦っちゃいませんよ。
このまま終わったら情けないよ。総合力で井山さんをやっつけられるのは張栩さんだけ。伊田くん(篤史・十段)、一力くん(遼・七段)と若い人も出てきたけれど、今はやっぱり彼だけだと思います。
長い時間は残されていない。石の上にも三年というけれど、そこまでは残っていない。だから早く帰ってきてほしい。そしてこれがいちばん大切。あなたには泉美さんを幸せにする義務がある。それには日本に帰って井山さんをやっつけるしかない。あなたには碁しかないんだから。
■『NHK囲碁講座』2015年12月号より
12月号では、今年拠点を台湾に移した張栩(ちょう・う)九段に厳しくも温かいエールをおくります。
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張栩さん(九段)のことはね、簡単に言っちゃえば好きです。その彼が住居を故郷の台湾に移し、手合のときに日本に戻ってくることを決断した。今月は正直にぼくの気持ちを記しておきたいと思います。
ま、堅苦しい話になる前に、彼を好きになったエピソードを紹介しましょう。初めは大嫌いだった。なぜかって、ぼくをボコボコに負かすから。何年か負け続けた時期もあったほどです。内容的には勝っていたものもあったんだけど、最後にきっちり逆転されちゃう。ブン殴ってやろうかと思ったですよ(笑)。ただ、その中の一局にとても印象的な出来事がありました。
早碁棋戦だったと記憶しています。ぼくの反則負けでした。終盤、コウを争っていて、近くにもコウの形があった。秒を読まれているうちにだんだん混乱してきてね。確か打っちゃいけないところに打って相手の石を抜いたんだったかなあ。当然、その時点でぼくの負けは確定です。
通常は「負けました」と言わなければいけないんだけど、ボーッとして何も考えられなくなっちゃったんだ。そしたら記録係だったか、プロデューサーだったか、どう対処していいか分からなくなったんだろうね。立会人を呼んだんだ。そしたら張栩さんがぼくにこう言ってきたんです。
「碁は終わりです。先生の反則負けです」
そのとき、はっと気付いた。我に返ったというのかな。そこでようやく「反則負け」を認めることができました。
彼の優しさを感じました。立会人を呼んでガタガタするのが失礼だと思ったんだね。だから立会人が来る前に解決しようとした。ぼくに恥をかかせないためにね。普通は言えないよ。彼はぼくより20 以上も年下。立会人から宣言してもらえば済むことなんだから。好きになったねえ、一瞬で。
張栩さんは局後の感想戦でもぼくに勝たせてくれない。それにも腹が立っていたんだけど、この反則負けの一件以来、印象が変わってきてね。もしかしたらぼくを鍛えようとしているんじゃないかと。「ぼくの感想を漏らさず聞いて、少しでも強くなってください」って言っているような。いや、言葉にするとやっぱり腹立つなあ(笑)。
さて本題。張栩さんが台湾へ拠点を移すという決断を妻の泉美さん(六段)は二つ返事でOKしたと聞きました。彼女は母の禮子(れいこ)さん(七段)と同じく、愛する人のためなら何でも受け入れる。光一さん(小林名誉三冠)も娘夫婦の決断を応援すると…。でもぼくは、全面的には賛成できません。
張栩さんは井山さん(裕太・棋聖)に負けて苦しんでいる。でも、本当はまだ負けたとは言えない。タイトル戦で何回かやられただけでしょ? しばらくは台湾から日本へ通うスタイルで気分を一新するのもいい。ただし、必ず帰ってくること。あなたを強くしたこの日本に。そして井山さんと雌雄を決してほしい。で、井山さんを吹っ飛ばせ! それでこそ真のライバルです。そのあとは2人で世界ですよ。ライバルはね、とことん戦ってからそう呼ばれるもの。張栩・井山はそこまで戦っちゃいませんよ。
このまま終わったら情けないよ。総合力で井山さんをやっつけられるのは張栩さんだけ。伊田くん(篤史・十段)、一力くん(遼・七段)と若い人も出てきたけれど、今はやっぱり彼だけだと思います。
長い時間は残されていない。石の上にも三年というけれど、そこまでは残っていない。だから早く帰ってきてほしい。そしてこれがいちばん大切。あなたには泉美さんを幸せにする義務がある。それには日本に帰って井山さんをやっつけるしかない。あなたには碁しかないんだから。
■『NHK囲碁講座』2015年12月号より
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