「地獄とは他人のことだ」──まなざしとしての他者との関係

「実存主義」と密接な関係にある「アンガジュマン」という考え方は、何らかのかたちで行動の次元での他人との関係を想定している。サルトルは戦時中に上梓した著書『存在と無』において、他者をまなざしとしてとらえる見方について言及している。サルトルにおける「他者」の問題について、フランス文学者の海老坂 武(えびさか・たけし)氏が紐解く。

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『存在と無』は、副題として「現象学的存在論の試み」と名づけられている哲学の大著です。「緒論 存在の探求」に始まって、第一部「無の問題」、第二部「対自存在」、第三部「対他存在」、第四部「『持つ』『為す』『ある』」の四部構成になっている。
この本の狙いは意識の自由の存在論的な証明である──などとまとめてみても、原書で700ページをこえる大著について何も言っていないに等しく、この本を解説するには、たぶんそれだけで丸々もう一冊のテキストが必要でしょう。ですからここでは、今回のテーマである他者との関係について論じたところにしぼって、第三部の「対他存在」から要点のみ記します。ただしそのための前提として少しばかり、存在をめぐる哲学用語について説明しておかねばなりません。
まず存在は、「即自」と「対自」の二つに分類されます。「即自存在」は、事物とか世界という言葉に置き換えることができます。一方、「対自存在」は、とりあえず意識という言葉に置き換えてみるとわかりやすいでしょう。
「即自」である事物は「それがあるところのものである」、したがって存在として充実しているのに対して、「対自」である意識は、「それがあらぬところのものであり、あるところのものであらぬ」、つまり「あらぬ」=「無」という否定的なあり方でしか存在しません。
けれどもこの世界での関係は、私と物、「対自」と「即自」との関係だけではない。他人がいます。その他人との関係をどう考えるか。これが第三部「対他存在」で扱われていることです。他人とは一方で私が見ている対象ですが、他方では私を見ている主観です。そのとき私は相手の対象になる。「対他存在」とは、この他者から見られた対象としての私のことです。自分の意識の中に、「自分に対する」存在としての「対自」だけではなく、「他者に対する」存在としての「対他」があるということです。
さて、こうした「対他存在」をつくり出すのは何よりも他人のまなざしです。この観点からすると、他人とは自分にまなざしを向けている者のこととなる。そして驚くことに、『存在と無』の中ではまなざしを向けられること自体が「他有化」であると捉えられているのです。「他有化」の原語は「アリエナシオン」(aliénation)で、普通は「疎外」と訳されています。もともと、「他人のものになる」「他人に譲渡する」の意で、そこから意味が拡げられ、「自分がつくった物の中に自分がみとめられない」「自分がつくり出した物に逆に支配される」といった意で使われるようになる。
例えばマルクスは、疎外という言葉を、外的条件によって自分の主人でなくなること、事物の奴隷になることの意味に使っている。サルトルの使い方もこの意味からそれほどはずれてはいないのですが、問題は疎外─他有化を生み出すのは何か、ということです。マルクスでは、資本主義制度の下での労働です。初期のサルトルはごらんのとおり、「まなざし」なのです。したがって、マルクスの場合は疎外の克服のためには社会変革が必要となるのですが、初期サルトルの場合は、意識の変革、意識の努力が求められる。
それにしてもサルトルはなぜまなざしを向けられることを他有化と考えるのか。考えの筋道はこうです。私はまなざしを世界に向けることによって世界の意味を構成し、所有していた。ところが他人のまなざしが出現すると、今度は他人が私の世界を構成し、所有し、私の世界は盗まれる。そればかりか、他人が私にまなざしを向けると、私についての評価が相手に委ねられ、自分が自分のものではなくなってしまう、と。しかし他人がいるかぎり、そして他人が自由であるならば、私がこうした他有化を蒙(こうむ)るのは当然のことです。そこでサルトルはこれを「自由の受難」と呼び、「人間の条件」と考えている。
問題は、そうした疎外─他有化、例えばこちらを「卑怯者」とみなす相手に対して、どう反応するかということです。『嘔吐』の主人公ロカンタンの場合、肖像画の場面では、相手のまなざしに対決して眺め返しました。『存在と無』においても疎外─他有化からの脱出の道はやはりまなざしに求められています。ただロカンタンの場合は相手が単なる肖像画でした。ところが、相手が生きている人間だとそう簡単にはいかない。生身の人間の場合には、まなざしを向ける者とまなざしを向けられる者との間に「葛藤─相克」が起こります。サルトルはこの相克を、他者に対する二つの態度──その極端な態度はマゾヒズムとサディズム──として分析するのですが、これは省略しましょう。
他者の意識とのこうした相克の関係を極限的なかたちで表現した作品としては『存在と無』の少し後に書かれた『出口なし』(1944年)という戯曲があります。これは死後の世界という設定ですが、「第二帝政式サロン」であるその舞台はどうやら地獄のようです。そこで男一人女二人の三人の死者が、お互いを眺め合っている。そしてお互いに相手のことを決めつけていく。そのとき、相手から決めつけられた自分を救うには、もう一人の第三者に救いを求めるしかありません。これはごく普通の職場などでもありがちなことで、上司から「無能」呼ばわりされてしまった人は、他の同僚に「そうではない」と言ってほしい。それが一つの解決法です。
ところが、彼らは三人とも死者で、神の裁きというよりも、生者からのまなざしによってすでに罪人だと決めつけられ、地獄に落ちていますから、もう自分の生前の行為の意味を修正することができない。しかもこの地獄には肉体的な責苦すらない、ただの平凡な部屋です。劇の終盤に、「卑怯者」と決めつけられた男が叫ぶ、「地獄とは他人のことだ」という有名な台詞に、その極限的な状況が集約されています。
■『NHK100分de名著 サルトル 実存主義とは何か』より

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