信長をして「まさに神業」と言わしめた棋士・本因坊算砂

テキスト『NHK囲碁講座』では、元参議院議員の藁科満治(わらしな・みつはる)さんが綴る「囲碁文化の歴史をたどる」が好評連載中です。8月号では、わが国初の囲碁棋士・本因坊算砂(ほんいんぼうさんさ)の来歴を辿ります。

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戦国時代から江戸時代にかけての囲碁を展望するには、まずその中興の祖ともいうべき本因坊算砂(1559~1623年)に触れておかなければなりません。算砂はわが国最初の棋士であり、戦国時代末期の織田信長(1534~1582年)、豊臣秀吉(1537~1598年)、徳川家康(1542〜1616年)の三大英傑に囲碁を指導した人物です。これは、単に武将に囲碁の技術指南をしたというばかりでなく、個性の異なる三大英傑を相手に教養文化としての囲碁を指導したという意味で、大変重い職責を果たしたと言えます。
算砂は、京都の能楽宗家・加納與助(かのう・よすけ)の子として生まれ、本名は加納與三郎(かのう・よさぶろう)と称しました。八歳のとき、叔父の寂光寺開山の日淵(にちえん)に弟子入りして出家しました。そして、仏教の修行をするとともに、当時京都で強豪として知られていた仙也(せんや)に師事して囲碁を学びました。日海(にっかい)と名乗っていた算砂はめきめきと腕を上げ、師匠の仙也を追い越したと言われました。天正六年(1578)、上洛した織田信長が寂光寺に立ち寄って僧・日海を引見しました。
このとき信長に囲碁の腕前を披露したところ、信長は「まさに神業、名人の技だ」と激賞したと言われています。これが囲碁・将棋の世界で達人・上手を「名人」と言った始まりだと言われています。このとき算砂は十九歳で、以後信長は上京するたびに算砂を呼び出し、自ら指導を受けたり、他の人と打つのを見物したと伝えられています。
最初に会ったときから四年後の天正十年、信長は本能寺で明智光秀に討たれて死去しますが、信長の御前で算砂と利玄(りげん)が碁を打ち、算砂が中押し勝ちしたと言われています。ところがこの碁には、別の逸話があって、珍しいことに三コウができたというのです。『爛柯堂棋話(全2巻)』(林元美 東洋文庫 平凡社)の第1巻には、そのときの棋譜まで掲載されていますが、どう見てもこの棋譜からは三コウになるとは思えません。天下無敵と言われ颯爽(さっそう)と天下取りに前進していた信長が、あまりにもあっさりと部下に討たれるという意外性が「三コウは不吉」という伝説を生んだのではないでしょうか。
■『NHK囲碁講座』2015年8月号より

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