「一枚の鏡」を通した決定的な出会い

1890年4月4日早朝、ラフカディオ・ハーンは横浜港に降り立った。目にするすべてを驚きをもって眺めながら、日本の人々や風景に魅せられたハーンは、その後小泉八雲という名の日本人として生きることを選ぶ。その決定的なきっかけとなった「出会い」について、早稲田大学教授・同国際言語文化研究所所長の池田雅之(いけだ・まさゆき)氏が紐解く。

* * *

桜のほころび始めた春、八雲は日本と決定的な出会いを果たしました。彼はすっかり日本に魅せられてしまい、来日初日のうちに長期の滞在を決意したと伝えられています。また親しい友人に宛てて、「私が東洋に来ているとは想いもよらぬことでしょうが、ここは、私の霊がすでに一千年もいる所のような気がします」と手紙を書き送っています。
この日、横浜の神社仏閣を暗くなるまで巡った八雲は、海辺のとある寺院で一枚の鏡と向き合います。この一節は、鏡を通して八雲が自分自身と向き合う不思議な場面です。
巨大な青銅の灯明入れが、まず目に入る。太いその軸の周りには、猛り狂う金竜が巻きついている。そこを過ぎようとしたとき天蓋(てんがい)から吊(つ)り下がっている、蓮(はす)の花の形をした花綱飾りに私の肩が触れ、小さな鈴が鳴った。まだものの形もはっきりと判別できないまま、私は探るように須弥壇(しゅみだん)へ近づく。
しかし、老僧が一枚一枚障子を開けてくれたので、金ぴかの真鍮(しんちゅう)の仏具や碑銘に、光が降り注いだ。私は、渦巻状の蠟燭(ろうそく)立てが並べてある須弥壇の上に、ご本尊を探した。しかし、そこに見えたのは鏡だけであった。よく磨かれた金属の青白い円盤の中に、私の顔が映っている。そして、その私らしき鏡像の後ろには、遠い海の幻影が広がっていた。
住職の老僧に導かれて本堂に入ったものの、そこで見つけたものは、ご本尊ではなく、自分の顔を映し出す一枚の鏡でした。その後、八雲は老僧にすすめられるままに、一杯のお茶をいただき、旅の意味を問いはじめます。
鏡だけなのだろうか! これは何を象徴しているのだろうか。幻影なのか、それとも、宇宙はわれわれの魂の反映としてのみ存在するということなのか。それとも、仏は自分自身の心の中に求めよという、中国古来の教えなのであろうか。いつの日にか、その謎ははっきりするであろう。
  (中略)
そのとき、あの私を映し出した鏡像が、再び私の心に甦ってきた。私は、自分が探しているものを、私以外の世界に、つまり、私が心に思い描く空想以外のところで、見つけることができるのだろうか。私にははなはだ怪しく思われた。
八雲の紀行文の終わりには、哲学的な瞑想にひたる一節が、必ずといってよいほど挿入されます。この部分もその一例でしょう。八雲はここで、日本での旅の意味、自分自身を求める旅の意味を問い返しています。自分を探す旅とは、究極的には、自分の心の中──それは空想か幻影にすぎないかもしれない──にしか見つけられないものではないのか。鏡に映し出された自画像(自己)との出会いは、自分自身を探求し、新たな自分と出会うための旅の始まりを告げている象徴的な出来事のように思います。同時に、これからの日本での14年間に及ぶ旅のプロローグとして、ふさわしい一つの事件ではなかったかと思われます。
■『NHK100分de名著 小泉八雲 日本の面影』より

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