大仰な美文調に宿るリアリティー

小泉八雲が日本にやってきて初めて書いた作品『日本の面影』。長年八雲を研究し、その翻訳も手がける早稲田大学教授・同国際言語文化研究所所長の池田雅之(いけだ・まさゆき)氏は、「その文体には大きな特徴がある」と指摘する。冒頭の一部を引きながら、解説していただく。

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『日本の面影』は、もともとは、欧米の読者向けに英語で書かれたものですが、その文体には大きな特徴があります。それは、きわめて19世紀的な、装飾語の多い、息の長い凝った文体です。本書の特色の一つは、八雲のかすかに震えるような、朦朧(もうろう)とした美文調の文体の息づかいにあるともいえます。
修飾語を多用した自然描写の例を、序文の次に収められた「東洋の第一日目」から一つ挙げてみましょう。道中で出会う人、街、自然、目にするものすべてが驚きに満ちているという中、八雲は高台にある寺の門前に立ち、ふと振り返ったところで、「えも言われぬ麗しい幻影」が聳(そび)え立っているのを目にします。
ただひとつそびえ立つ、その雪の高嶺(たかね)は、薄もやに霞(かす)む絶景で、心が洗われるように白い。太古の昔からなじみのあるその輪郭を知らなければ、人はきっと雲だと見まがうことだろう。山の麓(ふもと)の方は、空と爽(さわ)やかに色が溶けあってしまい、はっきりとは見えない。万年雪の上に夢のような尖峰(せんぽう)が現れる姿は、まるでその山頂の幻影が、輝かしい大地と天との間にぶら下がっているかのようだ。これこそ、霊峰不二の山、富士山(ふじやま)である。
原文(My First Day in the Orient)の英語ではこうなっています。
—one solitary snowy cone, so filmily exquisite, so spiritually white, that but for its immemorially familiar outline, one would surely deem it a shape of cloud. Invisible its base remains, being the same delicious tint as the sky: only above the eternal snow-line its dreamy cone appears,
 
seeming to hang, the ghost of a peak, between the luminous land and the luminous heaven,—the sacred and matchless mountain, Fujiyama.
 
原文についてまずいえるのは、一文の長さです。日本語訳では読みやすさを考えて五つの文に区切って訳していますが、英語の原文ではこれでたったの二文です。
また、「心が洗われるように」「輝かしい」「えも言われぬ」「神々しい」といった、やや大仰な表現が多用されているのも、『日本の面影』の文体の特徴です。八雲の文体の背景には、この時代に発達した写真の技術や、風景を精密に描く細密画への意識があると私は見ています。長々とした文章を読まなくても写真やリアリズムの絵画を見れば分かるではないか、という時代になってきた中で、対抗するようにすべてを絵画的な文章で描写したいという八雲なりの作家としての野心があった。それが、このような大仰にして細かい風景描写につながっているのではないかと推測しています。とにかく『日本の面影』の原文は決して読みやすいものではありませんし、翻訳するのはなお一層むずかしい仕事といえます。
同時に、このような装飾過多の文体は、八雲の日本の“地霊”との対話や照応(コレスポンダンス)から、おのずと紡ぎ出されてくるものともいえるでしょう。大仰な表現の多用は、ともすると批判されがちな美文調の特徴でもありますが、それによって、表現に一種の迫力やリアリティーを持たせていることもまた事実です。そうであれば、これらの過剰な形容語句は、八雲にとって空疎なものではなく、出雲や松江の地霊を呼び出すための「枕詞(まくらことば)」のような言霊(ことだま)そのものなのかもしれません。そして、彼は息の長い絵画的な文体に乗せて、ケルトとギリシャの血を引く自己の魂と、出雲という土地の地霊との間の照応を、丹念に記録していったといえるのではないでしょうか。
一方で、新聞記者出身である八雲には、ルポライターとしての技量も十分備わっており、すべてが朦朧とした美文調で書かれているわけではないことも付け加えておきたいと思います。八雲の紀行文の醍醐味は、まず、その土地土地の自然や人間の魂と向き合いながらも、きちんと事実関係の具体的なディテールもおさえて書かれている点です。『日本の面影』は、八雲の印象派風の言語芸術家(ワ ードペインター)としての美意識と、足で稼ぐルポライター的な活力(エネルギー)とリアリズムと、さらには民俗学者的な特異な嗅覚(きゅうかく)とが、渾然一体(こんぜんいったい)となった仕事(ワーク)と評価することができるでしょう。
■『NHK100分de名著 小泉八雲 日本の面影』より

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小泉八雲『日本の面影』 2015年7月 (100分de名著)
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