「近親相姦」はなぜタブーか

ペロポネソス半島東部に位置する古代ギリシアの都市、エピダウロスにある野外円形劇場遺跡
ギリシア悲劇の傑作『オイディプス王』のテーマは「父殺し」と「近親相姦」である。オイディプスは知らずして父を殺し、そして知らずして母を娶(めと)る。近親相姦(インセスト)がなぜタブーと言い切れるのか。「その問いに対する決定的な答えは、生物学者も文化人類学者もまだ出していないように思います」と作家・法政大学教授の島田雅彦(しまだ・まさひこ)氏は言う。

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生物学の世界でインセストは、遺伝的に不利になるとの研究結果があります。有性生殖をおこなう生物は、近親間だけでの交尾を続けると、遺伝情報の多様性が薄れます。劣性遺伝の要素が強くなり、ある種の異常が生じやすくなる。動物はそれを研究の結果として知っているわけではないので、本能によってそれを避けているだろうというのがひとつの答えです。
しかしながら、遺伝的に自分とまったくかけ離れたタイプより、多少の類似性がある個体を好むのも、また事実です。人間でも、似たような育ち方をし、趣味が合う人と結婚するケースが多いでしょう。もし遺伝子的に大きく異なる者同士がひかれ合うとしたら、人種を越えて結婚する人がもっと増えてもいいはずですが、意外とそうではない。だからインセスト・タブーは生物学的な本能からの指令とは言えません。
また、文化人類学的な視点でも考えてみましょう。サルのなかで、交尾の機会が得られない弱いオスが、代替行為として近親のメスに相手をしてもらう事例は、ときどきあるようです。しかし、家族制度がはっきりとできあがった地域に住まう人間の場合は、近親で結婚しても親戚が増えないので、不経済と考えられます。自分の家の娘が、一族の者と結婚したところでメリットはない。むしろ対立する部族や、異なる部族に嫁に出すことで、相手との関係が生じます。これは一種の外交です。文化的な面から、近親婚は避けるほうが得とする考え方は説得力のある理由ではあります。
ただ一方で、高貴な血筋の者の場合、異なる部族と結婚することによって財産が分散したり、王位継承において混乱が生じたりするので、それを避けたいとも考えるでしょう。高貴な血筋を守る意味で、逆に近親婚が奨励(しょうれい)される。古代ローマでのそうした近親婚の一例が皇帝カリギュラです。そこでは、高貴な血筋の者の特権としての近親相姦を正当化するために、下々のものにはそれを許さず、タブー視されたケースもある。
生物学的、あるいは文化人類学的に、説得力のある説を提起したとしても、普段から身近に接してきた者とのあいだに性的関係を築くことへの生理的嫌悪感は多くの人が共有しています。イオカステも、息子オイディプスとずっと親子として生活を共にしていたら、「その気」は起きなかったはずです。しかし幼い頃から引き離され、お互いが実の親子関係であるとは露(つゆ)ほども考えていなかったからこそ、会った瞬間から、どこか説明しがたい懐かしさや安心感を相手に覚えてしまったのでしょう。多少、年齢の差があったとしても惹(ひ)かれ合ってしまうのは当然といえば当然です。事実を知らずにいたこと──それが『オイディプス王』の最大の悲劇の要因です。
この近親婚については、『コロノスのオイディプス』にコロスの台詞で印象的なものがあります。
この世に生を享(う)けないのが、すべてにまして、いちばんよいこと、生まれたからには、来たところ、そこへ速かに赴くのが、次にいちばんよいことだ。
人の心理は一筋縄ではいきませんから、おぞましいからこそ惹かれる可能性もありますし、おぞましさゆえの禁忌だから、その禁忌をあえて犯したいという破壊衝動を持つ可能性もある。近親相姦のテーマは、かように複雑なバリエーションをもって描かれてきました
■『NHK100分de名著 ソポクレス オイディプス王』より

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