本因坊算砂と宗桂──日本将棋の歴史を紐解く

本因坊算砂と宗桂の一局
日本の将棋には千年を超える長い歴史があります。将棋は遅くとも平安時代には日本に伝わり、16世紀の終わりには将棋を専門に指す人々が出てきて、それが現在のプロ棋士制度にまでつながっています。そうして将棋を指してきた人々の中には歴史に名を残した棋士がたくさんいます。
『NHK将棋講座』別冊付録「リバイバルNHK将棋講座 古い棋譜を訪ねて」では、石田和雄(いしだ・かずお)九段がそうした有名な棋士たちの将棋を取り上げ、それぞれの時代や将棋の内容の違いを探っていきます。
初回は、「(1)草創期の棋士たち」と題し、日本将棋の初期の歴史を紐解きます。

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日本将棋のルーツはチェスと同じく、古代インドのチャトランガだとされます。私が最初にこの講座を書いた35年前にはまだ不明だったことも多いのですが、その後の研究で分かったことが2つあります。
1つは将棋やチェスのルーツであるチャトランガは古代インドで5世紀ころ発生したらしいということ。これは最近のチェス史の研究で明らかになったそうです。
もう1つは1993年に奈良の興福寺で1058年の年号が入った木簡と共に10点以上の日本将棋の駒が発見されたこと。
つまり、日本の将棋は5世紀から11世紀の間のどこかで日本に伝わり、今の将棋に発展していったということになります。
しかし、日本の将棋がいつどのようにして伝わったのか。最初日本に伝わった将棋はどのようなものだったのか。日本将棋特有の持ち駒使用のルールはいつごろできたのか。日本将棋の根幹に関わるこのようなことは依然として分かっていません。
日本将棋には世界のほかの将棋類とは違った特徴がいくつかあります。持ち駒使用がその代表ですが、他にも双方が全く同じ駒を使うこと(だから、取った駒の再使用がしやすい)。木片五角形の駒に文字を書いて使うなどの特徴があります。
つまり、日本に伝わった将棋は日本独自の社会や文化の中で、かなりルールや形態が変わっていったと考えられます。中でも持ち駒使用は日本将棋を非常に複雑で変化に富んだものにしました。その結果として、将棋を専門に指す人々が現れました。
最初に紹介するのは初代宗桂と本因坊算砂の一戦です。宗桂は将棋の名手として日本の将棋史上に初めて名を残した人です。囲碁は将棋よりも数百年早く日本に伝わったとされ、算砂より古い時代の名手の名も残っています。しかし、囲碁史上最初の巨人といえば、やはり宗桂と同時代に生きた本因坊算砂ということになります。
算砂と宗桂をつなぐキーワードは徳川家康です。16世紀後半、太閤秀吉が天下を取っていた時代、徳川家康は五大老の筆頭としてナンバーツーの座にありました。その家康が大名や公家、上級武士などをもてなすと同時に政治的な情報を集めるため、囲碁と将棋の会を頻繁に催したのです。その会に算砂と宗桂は講師として常に招かれていました。そうした縁が長く続き、やがて家康が天下を取ったとき、算砂や宗桂には俸禄(ほうろく)が与えられることになり、それが囲碁家元、将棋家元の誕生へとつながっていくのです。
宗桂について詳しいことは分かっていませんが、上級公家を自宅に招いて将棋を指していますから、かなり富裕な家柄だったことは間違いありません。算砂は政治的に高い実力のあった人で、囲碁と将棋の歴史の中で非常に重要な役割を果たした人であることが分かっています。
 

■草創期の名手

徳川家康が催した囲碁会や将棋会には、多くの大名や公家が参加しています。大名や公家の間で頻繁に碁が打たれ、将棋が指されていたことが分かります。算砂や宗桂はその囲碁ファンや将棋ファンをもてなす係です。算砂は碁も強いが、将棋も強かった。大名や公家の相手をするのに囲碁と将棋の両方できるのは大きな武器になったはずです。
上掲の棋譜は、その算砂ピンチと思えるハイライト図。4五の馬を攻められて後手苦しそうですが、ここで後手の算砂はじっと☖4二金と引きました。この手は相当な上級者でなければ指せない。いわば、草創期の名手です。
■『NHK将棋講座』2015年4月号より

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