全ての道は将棋に通ず……内藤國雄九段を棋士に導いた数多の偶然

内藤國雄九段(右)と藤内金吾八段 写真:河井邦彦
『空中戦法」の創始者である内藤國雄(ないとう・くにお)九段は、棋士になったのは多くの偶然が重なった結果であると言う。

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“ゆとり教育”は生徒の成績が下がるばかりだといって廃止されてしまったが、私が小学生のころにこれがあれば救われたのにと、残念に思う。自分の好きなことをもっとのびのびとやれたであろうから。
小学生のころ、いろんなことに熱中したが、それらは後になってすべて役に立った気がする。いちばん後で熱中したのは詰将棋。上に三人の兄がいて自然に将棋を覚えたが、弱いので相手にしてくれない。そこで一人で遊べる詰将棋に凝った。授業中も詰将棋を考えているので、先生に当てられても答えることができない。罰として廊下に立たされるのだが、これはありがたかった。自由に詰将棋に没頭できるからである。これが一生の私の仕事に結びついていく。
このときの頭の中で将棋の駒を動かすという修練が、後々に生きるのである。
しばらくして街の将棋道場に通うようになるのだが、これには多くの偶然が重なっていて、それのどれが欠けても棋士になっていなかった。その中の二つだけ上げる。
もし外で兄の自転車の番をしている少年に道場の先生が「中にお入り」と声をかけてくれなかったら。もしそのとき相手をしてくれたおじさんが、3連敗した次の一局を負けてくれなかったら…。
一局でも勝てたことがうれしくなり、道場に通うようになる。早速13級でトーナメント戦に参加。時に13歳。優勝すると月に2級上がる。毎月優勝を続けて半年で初段になった。ここで思いがけないことが起こる。突然道場の先生が羽織袴(はおりはかま)の正装で我が家を訪れて、私のプロ入りを勧めてくれたのである。
家は薬局を営んでいたが、薬剤師の父が亡くなった後で、母と店を継いだ長兄が相手をした。
「何段まで行けますか」。兄のむちゃな質問に「八段にはなれます」。隣室で聞いていた私は驚いた。当時の八段は最高の段位である。家族を承諾させるためとはいえ、八段には、とはよく言ってくれたものだ。思い出すといつもこのことに感心する。
先生の名は藤内金吾(ふじうち・きんご)。横書きの看板を見て内藤と呼んだのも、その道場に行くようになった“偶然”の一つ。当時は60歳前であったが、少年の目にはもっと老人に見えた。私はこの日のことを、師匠に深く感謝している。おかげで“自分探し”や、生きていくための職探しなどに悩まされずに済んだ。このことは大きい。
■『NHK将棋講座』2015年1月号より

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