作家・石井光太が暴く「子ども殺し」の全貌――親はなぜ、愛するわが子を殺してしまうのか?

「鬼畜」の家:わが子を殺す親たち
『「鬼畜」の家:わが子を殺す親たち』
石井 光太
新潮社
1,620円(税込)
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 2015年5月。神奈川県厚木市のアパートから、白骨化した幼児の遺体が見つかるというショッキングな事件が起こりました。殺人罪に問われたのは、被害にあった齋藤理玖君の父親、齋藤幸弘。家出をした母親の代わりに、育児と言うには程遠いやり方で理玖君の"世話"をしていた齋藤は、徐々に浮気相手との逢瀬を優先するようになり、アパートに理玖君を放置。死に至らしめ、7年間放置したまま、逃走しました。

 このネグレクトが引き起こした「厚木市幼児餓死白骨化事件」をはじめ、嬰児を殺し遺体を天井裏や押し入れに隠した「下田市嬰児連続殺害事件」、3歳児をウサギ用ケージに監禁し死亡させた「足立区ウサギ用ケージ監禁虐待事件」という3つの悲惨な事件の真相を探ったのが、作家・石井光太さんによる『「鬼畜」の家 わが子を殺す親たち』です。家庭という密室で子どもたちはどのように殺されていったのか、そしてこうした痛ましい事件を葬り去るためにできることは何か。石井さんに話を聞きました。

*  *  *

――これまでも世界の貧困地域やスラム街、東日本大震災の遺体安置所など、壮絶な現場を数多く取材されてきた石井さんですが、今回「子ども殺し」を執筆のテーマに選ばれた理由からお聞かせいただけますか。

テレビをつければ、子どもの虐待や殺害事件についての報道は週に1つは耳に入ってくる昨今、私たちはこうした悲惨な事件のニュースを"消費"するようになってきてしまっています。例えば、子どもの殺害事件が起きればネットニュースにポンと取り上げられて、1日、2日すればみんなその話題に触れなくなる。ニュースのコメント欄を見てみれば、「子どもを殺した親はなんて鬼畜なんだ。子どもと同じように殺してやれ!」といった書き込みが並びます。しかし、こうした報道や書き込みが繰り返されても、きっと同じような事件は起こってしまいますし、何の解決にもならない。ある統計によると、日本では1日一人の割合で子どもが殺されているという。同世代に生きる人間として、この問題には必ず向き合う必要があると思い、取材を始めました。

――多くの事件の中でも、この3つにフォーカスされた理由は何ですか?

3つの事件は、被害者が子どもであるという共通点がありますが、それぞれの実態は異なります。もちろん家庭環境、経済状況の違いはありますが、例えば「厚木市幼児餓死白骨化事件」は育児放棄、つまりネグレクトが引き起こした事件です。一方「下田市嬰児連続殺害事件」は、子どもを産んだその日のうちに殺してしまう嬰児殺し、そして「足立区ウサギ用ケージ監禁虐待事件」は子供に対する身体的虐待によって子どもを殺しています。つまり、子どもが殺された経緯が全く違うのです。その経緯にひとつひとつ向き合うために、それぞれにおいて象徴的な事件を取り上げました。

――この本の執筆にあたり、犯人だけでなく、その友人や親族のもとにも足を運んでいらっしゃいますよね。取材を通して、犯人たちの人間像はどのように浮かび上がってきましたか?

私も、当初はネットニュースにコメントをする人たちのように犯人たちのことを「ただの鬼畜だ」と思っていたんです。しかし、その認識は取材を重ねるにつれ改まっていきました。犯人たちは皆、彼らなりのやり方で育児をして、子どもを育てようと本気で思っていたんです。厚木市の事件でも、齋藤は出て行った妻の代わりに、理玖君にコンビニで買ったパン、おにぎり、ペットボトルの"食事セット"を与えていました。ゴミ屋敷と化した家の中でも、齋藤は理玖君に寄り添って寝ていたとも言います。もしも、自分が齋藤と同じ状況下で子どもを育てなければならなかったら、すぐに施設に預けているでしょう。少なくとも私にはあそこまでできない。だから、加害者の親たちが口を揃えて言う「愛していた、でも殺してしまった」という言葉は、ある意味で真実なんです。しかし、その「愛し方」「育て方」が根本から間違っていた。だからこそ、彼らは愛情を持って育てていたつもりでも、客観的にはネグレクトであって子供を死に至らしめてしまう。

――そうした事実が見えてくると、取材を通して犯人たちに感情移入してしまうこともあったのではないでしょうか?

そうですね、彼らが「間違った愛情」を持ってしまった原因は、多くの場合その成育歴にあります。虐待家庭などに育ったことによって、普通の人が当たり前のように持っている「愛情」がねじれてしまう。そういう意味では、犯人を哀れに思う気持ちもありました。
ただし、だからと言って犯人を肯定することはできません。事件の結末として、子どもたちが死んでいるんです。被害にあった子どもの周りにいた兄弟たちも、きっと大きな傷を抱えて生きていくことになるでしょう。そう思うと、書きながらどれくらい犯人たちに共感してよいものなのか、子どもたちに寄った書き方をすべきなのか、その距離感をずっと考えながら筆を執っていました。

――では、事件の背後に家庭の事情みたいなのはあるのでしょうか?

よく「虐待は連鎖する」と言われますが、私はそうは思わないんです。虐待を受けた子どもが、我が子にも手を挙げるかというと、必ずしもそうではないですからね。少なくとも「遺伝」はしない。ただし、傾向としては虐待を受けた子供は、大人になって虐待に走ることは少なくない。

――それはなぜなんですか?

人の心は、例えれば「コップ」みたいなものです。人はそれぞれ、大なり小なりコップを持っています。けど、そこに水――虐待による精神的な負担――がどんどん注がれていくと、あふれてコップが倒れてしまうことがある。心が壊れるというのは、そういうことなんです。そして、その壊れ方の一つの形としてわが子への虐待がある。ただし、人によってコップの大きさも違えば、注がれる水の量も違うので、かならずしも虐待が連鎖するとはいえない。けど、虐待が虐待を生むという因果関係は否定できない。そういうことだと思います。

――コップの大きい小さいという問題もあるんですね?

ありますね。たとえば、三人兄弟が同じような虐待を受けていても、心が壊れる子とそうでない子がいます。それはコップの大きさに起因するでしょう。この本に出てくる加害者たちも、かならずしも「ありえないぐらいの暴力」を受けてきたわけではありません。たとえば、齋藤幸裕の場合は、母親の統合失調症という問題があった。けど、同じように統合失調症の親を持つ子供はたくさんいるでしょう。全員が全員、齋藤幸裕みたいになるわけではない。彼の妻だってそう。ものすごいスパルタの家ではあったけど、暴力行為はありませんでした。ただし、そのスパルタが彼女にとっては暴力以上の精神的苦痛を与えていた。ここらへんはコップの大きさ、あるいは性質の違いでしょうね。だからこそ、虐待というものを相対的に考えることはできないのです。あくまで、その子にとって親の行為がどういう意味を持ったかということですから。一つひとつわけて考えていかなければなりません。

――厚木市の事件の中でも、齋藤とその妻の共通の知人が「二人は子どもを産んではいけない夫婦だった」と語っていたのが印象的でした。

齋藤の夫婦は、その成育歴から子どもを育てる能力が完全に欠如していたんだと思います。僕はむしろ同じ知人が言っていた「夫婦は理玖君を愛していた。けど、子供がクワガタを愛するのと同じような愛し方でしかなかった」という言葉が印象的でした。子供がクワガタを買ってもらったら喜んで1週間は育てるけど、やがて飽きて放置して餓死させてしまう。でも、子供はかならず「かわいがっていた」と言う。それと同じことが、人間の子供に対しても起きてしまっているという。一般的な家庭では、どちらかが育児能力がなくても、もう一方がフォローできるような夫婦体制をとっているから家庭が成り立っているわけですが、齋藤の場合は違った。「愛」の概念がズレた二人が一緒になって、子供をネグレクトしてしまうのです。

――ということは、齋藤の夫婦が子どもを産んでしまった以上、理玖君は悲惨な事件に巻き込まれることは必然だったのでしょうか。

そうとも言い切れません。例えば、齋藤幸裕はちゃんと会社に通って働いていて、手当ももらっていました。会社の上司が「お子さんは元気? 今度家族で遊びに行かない?」というコミュニケーションを取っていれば、異変に気づいたでしょう。そういう関わりがまったくなかった。それは彼のせいじゃなく、社会環境のせいです。下田の事件だって同じですね。(母親で加害者となった)高野愛はバイト先のファミレスで破水しています。それで家に帰って生んだ赤ちゃんを殺害してしまうのですが、普通ならば店長が「だいじょうぶか」と心配して病院に送っていくなり、救急車を呼ぶなりするでしょう。信じられないことに、そういうことが一切ない。バイトの仲間だって破水したのを知っているのに、家にお見舞いにすら行こうとしていません。みんながみんな、知らん顔してしまっている。だから、赤ん坊を育ててかわいがるということができない親が孤立して間違ったことをしてしまうのです。

――二重にも三重にも異常な状況ですね。

率直に言って、子供を育てることができない親というのは、いつの時代にも存在すると思うんです。けど、そういう親だって子供を持つ。大切なのは、その時に周りがどうするかです。今は、みんな児童相談所などに責任を押しつけて知らんぷりをしている。けど、児童相談所が何から何までできるわけがないんです。プライベート空間にどこまで介入するかという問題だってある。だからこそ、そのプライベート空間で一緒に過ごしている周りの人たちが力にならなければならない。今の社会には、その周りの人たちのサポートが欠落している。齋藤幸裕の会社の人たち、高野愛のバイト先の人たちが典型的です。

――加害者、その周囲の人々、それをとりまく町の環境、ひいてはこの国の社会構造......どこで境界線を引いていいのかわかりませんが、"社会が見放した人たち"が事件を起こしてしまったと感じてしまいます。そういう意味では、この社会に生きる我々全体が考えなければいけない問題なのかもしれませんね。

だからこそ、虐待について真正面から見ることが必要なのです。加害者を「鬼畜」と呼んで現実から目をそらしては、事件が減ることはありません。彼らがなぜ親としての責任が欠落した人間になったのか、そういう人間がどういうふうに子供と接しているのか、彼らに対して私たち一人ひとりがサポートできることは何なのか。それを考えて取り組んでいくことが、子供の命を救うことにつながるのです。この本がそうした一助となってくれればうれしいです。


<プロフィール>
石井光太(いしい こうた)
1977(昭和52)年、東京生まれ。国内外を舞台にしたノンフィクションを中心に、児童書、小説など幅広く執筆活動を行っている。主な著書に『物乞う仏陀』『神の棄てた裸体』『絶対貧困』『レンタルチャイルド』『地を這う祈り』『遺体』『浮浪児1945─』、児童書に『ぼくたちはなぜ、学校へ行くのか。』『幸せとまずしさの教室』『きみが世界を変えるなら(シリーズ)』、小説に『蛍の森』、その他、責任編集『ノンフィクション新世紀』などがある。

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