真田幸村の娘婿は超絶イケメン 伊達政宗とも"主従以上の関係"だった?

日本男色物語 奈良時代の貴族から明治の文豪まで
『日本男色物語 奈良時代の貴族から明治の文豪まで』
カンゼン
1,836円(税込)
商品を購入する
>> Amazon.co.jp
>> HonyaClub.com
>> エルパカBOOKS

 2016年1月10日から放映が始まるNHK大河ドラマ『真田丸』。"日本一の兵(ひのもといちのつわもの)""家康が最も恐れた男"と名高い武将・真田信繁(幸村)の生涯は、ドラマや小説の格好の題材となり、これまでにもたびたび映像化されてきました。

 大坂夏の陣で壮絶な死を遂げた幸村ですが、そんな幸村の血筋が、東北の雄・伊達藩に伝わっていたことをご存知でしょうか?

 実は幸村の死後、かの"独眼竜"で知られる武将・伊達政宗の家臣に、幸村の娘が嫁いでいます。その家臣こそ、片倉小十郎重長(重綱)といい、父の片倉景綱とともに政宗に仕え、その勇猛ぶりから"鬼の小十郎"の異名を取った人物でした。

 幸村と政宗は、大坂の陣で対峙し、激闘を繰り広げていましたが、「老翁聞書(ろうおきなききがき)」が伝えるところによると、"敵将ながらあっぱれな戦いぶり"と、重長を見込んだ幸村が、大坂城落城前に、娘の阿梅姫をはじめ遺児数人を託したそうです。

 片倉家では幸村の遺児や遺臣を丁重に保護し、重長は阿梅姫を妻に迎えました。阿梅姫とともに庇護された幸村の次男・大八は、成長後に真田守信と名乗り、仙台真田氏のルーツとなったのでした。

 ところでこの重長には、ある逸話が伝わっています。超イケメンだったという重長は、男色家の武将・小早川秀秋に強引に迫られたり、政宗とは"主従以上の関係だった"という、まことしやかな伝承も。

 たとえば、書籍『日本男色物語』では、男色関係の根拠として、先述の「老翁聞書」が伝える以下のエピソードを紹介しています。

 当時の武将にとって、先鋒を命じられるということは、大変に名誉なこと。大坂出陣に際し、重長は政宗に伊達軍の先鋒を願い出ます。すると政宗は重長を引き寄せて「頬へ御喰付成され」(同書より)つまり、「頬に接吻をした」(同書より)ということです。政宗は、さらに涙ながらに重長の手を取って"そなた以外に、誰がいるというのか"と語り、重長も感激のあまり男泣きした、と書かれています。

 このとき、政宗47歳、重長31歳。実際に男色関係にあったかどうかは別としても、"独眼竜"政宗にこれほど信頼され、愛されていた武将だったからこそ、幸村もまた人柄を見込み、自身の遺児を託したのではないでしょうか。

 また、これよりさかのぼること30年前、政宗が重長の父・景綱に宛てた書状が残っています。このとき、景綱の妻は懐妊していましたが、景綱は、主君の政宗にはまだ嫡男が誕生していないことを憚り"家臣の分際で、主君より先に嫡男を授かっては申し訳ない"という忠心から、赤子が生まれたらすぐに殺してしまうつもりでした。

 この話を伝え聞いた政宗は驚き、"生まれたら殺すと言っているそうだが、そんなことをしてはいけない。どうか助けてやってくれ"という手紙を出し、赤子を殺すことを止めさせました。そう、このとき、政宗に命を救われた赤子こそ、のちの重長だったのです。

 父・景綱は、政宗の乳母・喜多の異父弟にあたり、文字通り、一家総出で政宗を支えた片倉一族は、政宗にとって公私ともに欠くことのできない存在でした。政宗の重長への"接吻"も、片倉一族の忠義に報いる思いが凝縮されたあまりの行動だったのかもしれません。

« 前のページ | 次のページ »

BOOK STANDプレミアム