豊臣秀吉が禁じて伊藤博文が解禁 庶民に愛されつづけたふぐの日本史

魯山人の美食手帖 (グルメ文庫)
『魯山人の美食手帖 (グルメ文庫)』
北大路 魯山人
角川春樹事務所
691円(税込)
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この時期に美味しい冬の味覚に、ふぐがある。柔らかい白身のふぐ刺しに、コラーゲンたっぷりのもちもちしたふぐ皮、そして何より美味しい、優雅に口の中に広がる味わいの白子。それらをぐつぐつと煮込んだ"てっちり"も定番であり、大変に美味しい。芸術家で美食家とも知られた北大路魯山人が、エッセイ『魯山人の美食手帖』の中で「ふぐの代用になる美食はわたしの知るかぎりこの世にはない」と語った理由も頷ける。

ふぐと日本人の付き合いは、縄文時代まで遡ることができると言われる。古墳や貝塚から多くの骨が見つかっており、頻繁に食されていたようだ。例えば、千葉県の姥山貝塚では、家族の骨とともにふぐの骨が発見されている。ご存じの方も多いように、ふぐは毒性を持つ危険な魚であるから、家族でふぐに当たったのではないかと推測する研究者もいるようだ。

そんなふぐは当然ながら、時の権力者にも危険視された。豊臣秀吉は、朝鮮出兵の際に道中で家来が倒れてしまい、ふぐ食の禁止令を発令した。この禁止令は結局、江戸時代を通じて明治の世まで残ることになる。日本人とふぐの歴史における、最も大きな事件といえるかもしれない。

とはいえ、日本の庶民たちはといえば、お上のそんな思惑など何のそのだったようだ。食べたことが発覚した際にはお家断絶という厳しい藩もあったようだが、ちゃっかり冬になると、多くの庶民が美味しいふぐを堪能していたようだ。実際、川柳も沢山残っており、著名な俳人たちもしたためている。

「あら何ともなや きのふは過て ふくと汁」
(意味:昨夜ふぐ汁を食べてしまったが、何ともなかった。昨日は過ぎてしまったのだなあ)

というのは、かの俳聖・芭蕉の句であるし、小林一茶に至ってはこんな句まで作っている。

「鰒(ふぐ)食はぬ奴には見せな不二の山」
(意味:ふぐを食わない(野暮な)人間には、富士山を見せるな)

幕府の禁止令も、ふぐの美味しさには勝てなかったということだろうか。いかに庶民に愛されてきたかがわかるだろう。

結局、この令が解かれたのも、ふぐの類まれな美味ゆえであった。明治に入り、初代首相の伊藤博文が退任後、山口県のとある料亭を訪れたときのことだ。「シケで他の魚が獲れなかったから」と、女将がふぐを出してきたのである。そこで彼がその味に感激したことが、ふぐ食の解禁に繋がったと言われている。

ふぐは現在、免許を取得した者しか調理できなくなっており、安全性が飛躍的に向上している。その味を堪能したければ、やはり沿岸部の地域へ足を運ぶのが一番だ。温泉で身体をほぐしたあとに一杯やって、ふぐを愛してきた日本人の長い歴史に思いを馳せながら、旬の味に舌鼓を打つのも一興だろう。

【関連リンク】
今が旬! 牡蠣またはふぐが味わえる宿
http://www.yukoyuko.net/special/dir/name/t_kakihugu/area/08

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