力強くダイナミックな運慶

仏像が盛んにつくられた平安時代、定朝(じょうちょう)作品に見られるように、平安貴族には、柔らかく穏やかな表情が好まれました。鎌倉時代に入り、武士の時代になると、仏像も力強さが増し、より写実的になりました。慶派(けいは)と呼ばれる奈良仏師たちが活躍し、その中心にいたのが、運慶(うんけい)と快慶(かいけい)です。2人はよきライバルとして互いに個性を磨き、今も多くの仏像ファンを魅了し続けています。駒澤大学教授の村松哲文(むらまつ・てつふみ)さんが、興福寺(奈良県)に安置されている運慶の作品を紹介します。

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壁面が八角形の円堂である北円堂(ほくえんどう)は、奈良県興福寺境内の北西の端にあります。のちに南円堂(なんえんどう)が建てられたために、北円堂と呼ばれるようになりました。もともと円堂という建物は、亡くなった人の魂を鎮める廟(びょう)としての役割をもちます。興福寺の場合は、当時の最高権力者・藤原不比等(ふじわらの・ふひと/659〜720)の冥福を祈るために、養老(ようろう)5年(721)につくられたもの。そのとき、安置された仏像は、現在と同じ9躯です。本尊を弥勒如来にした理由として、興福寺が法相宗(ほっそうしゅう)の寺院であり、その教えの始源に弥勒(マイトレーヤという実在したインド人との説がある)がいること、不比等が生前に弥勒を信仰していたこと、などが挙げられます。
北円堂は創建後、2度の火災に見舞われ、お堂も仏像も焼失。再建されたのは鎌倉時代初期で、安置された諸像も当初の姿を復興する目的でつくられました。そのため、仏像の種類も数も、奈良時代と同じです。実力派の運慶一門が担当し、弥勒如来像の台座の墨書きから、源慶(げんけい)、静慶(じょうけい)、運覚(うんかく)の古参仏師と湛慶(たんけい)をはじめとする運慶の息子たちが参加したことがわかります。
運慶工房が手がけた羅漢像の2躯は、無著立像と世親立像です。4〜5世紀の北インドに実在した僧侶の兄弟で、弥勒のあとを継いだ法相宗の開祖です。運慶の作風を受け継いだ息子たちは、この2人を堂々とした体格で力強く表現し、日本人僧のような親しみやすい風貌に仕上げました。老人の姿をした無著像は、手の平にそっと裂に包んだ荷物を持っていますが、中身はお釈迦さまの骨が入った仏舎利(ぶっしゃり)容器。一方、壮年の姿をした世親像は、真剣に遠くを見つめています。
■『NHK趣味どきっ!アイドルと巡る 仏像の世界』より

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