平家没落の端緒となった「悪行のはじめ」
平安末期、平忠盛は日宋貿易で得た莫大な富をつかって鳥羽院に得長寿院や荘園を寄進。その子清盛は保元・平治の乱で武功を挙げたばかりでなく、天皇家や有力貴族と姻戚関係を結ぶことで権力を拡大し、平家は隆盛を極めます。そんな中、その後の没落につながる「驕り」が表出する出来事が起こります。「平家の悪行のはじめ」と言われるこの事件を、能楽師の安田 登(やすだ・のぼる)さんが解説してくれました。
* * *
忠盛は58歳で亡くなり、跡を継いだのが長男清盛でした。清盛は、その後に起きた保元の乱、平治の乱で後白河天皇(平治の乱では後白河上皇)側について武功を挙げ、またたくまに出世の階段を上ります。もともとは安芸の国司だった清盛は、たった十年余りで貴族の最高位である太政大臣にまで上り詰めます。また一族も、清盛の長男重盛は内大臣で左大将、三男宗盛は中納言で右大将、四男知盛は三位中将、孫の維盛(重盛の子)は四位少将の地位につき、八人の娘も天皇家や貴族に次々に嫁ぎます。
そんな中、「平家の悪行のはじめ」と言われる事件が起こりました。重盛の次男である資盛(すけもり)が、仲間と鷹狩りに行った帰りに、摂政である藤原基房の一行と行き会ったのですが、その際、馬を下りる礼をとらずに一行を駆け破ろうとしたのです。この事件を描くのが、巻第一「殿下乗合(てんがののりあひ)」です。
「摂政・基房」対「平資盛」。これは実は信じられない構図です。摂政とは、天皇が幼少のとき、天皇に代わって「万機を摂行する」、つまり、叙位・任官をはじめ天皇が持つ権限のすべてを代わってとり行う地位にある、貴族界の第一人者です。そんな人との間にこんなことが起きた。これは非常に大きな事件です。
さきほども述べたように、平家はこのときすでにかなりの勢力を誇っていました。平家を取り立てた後白河院ですら、これほどの勢力拡大は予測していなかったようで、「清盛がかく心のままにふるまふこそ、しかるべからね」(清盛がこのように思うままにふるまうのは、よろしくない)、 これは世も末になって天皇の法も尽きてしまったからだ、とこぼしていました。
摂政、基房の従者は資盛たちに対して、「無礼もの。馬から下りなさい」と命じます。これは当然です。それを言われたときの資盛の様子が、「余りにほこりいさみ、世を世ともせざりけるうへ、召し具したる侍さぶらひども、皆廿より内の若者どもなり、礼儀骨法(こつばう)弁(わきま)へたる者一人(いちにん)もなし」(あまりに平家の威勢を自慢し勇み立って、世間をなんとも思っていなかったうえに、召し連れた侍どもが皆二十歳以下の若者どもだし、礼儀作法をわきまえた者は一人もいない)と描写されます。町にたむろする不良のような、礼儀を知らない若者たちを引き連れた資盛が、貴族界の最高権力者と出会ってしまった。そして驕りから無礼を働いた。基房一行は憤り、資盛や侍たちを馬から引きずり下ろしてしまったのです。
これに怒ったのが清盛でした。以下は、激怒する清盛と、それを諫(いさ)める息子の重盛とが描かれる場面です。ちなみに摂政に無礼を働いた資盛は重盛の子です。
「たとひ殿下(てんが)なりとも、浄海(じやうかい)があたりをばはばかり給ふべきに、をさなき者に、左右(さう)なく恥辱をあたへられけるこそ、遺恨の次第なれ。かかる事よりして、人にはあざむかるるぞ。此事(このこと)思ひ知らせ奉らでは、えこそあるまじけれ。殿下を恨み奉らばや」と宣(のたま)へば、重盛卿(しげもりのきよう)申されけるは、「是(これ)は少しも苦しう候まじ。頼政(よりまさ)、光基(みつもと)なンど申す源氏共(げんじども)にあざむかれて候はんには、誠に一門の恥辱でも候べし。重盛が子どもとて候はんずる者の、殿の御出(ぎよしゆつ)に参りあひて、乗物よりおり候はぬこそ、尾籠(びろう)に候へ」とて、其時(そのとき)事にあうたる侍(さぶらひ)ども、召し寄せ、「自今(じこん)以後も、汝等(なんぢら)、能(よ)く能く心得(こころう)べし。あやまッて殿下(てんが)へ無礼の由を申さばやとこそ思へ」とて、帰られけり。
([清盛]「たとえ摂政殿であろうとも、浄海[清盛]の身内に対してははばかり遠慮なさるべきなのに、幼い者に、何の躊躇もなく恥をかかせたのは、遺恨な事である。こういう事から、人にはばかにされるのだ。この事を摂政殿に思い知らせてあげなくては、おられないぞ。摂政殿へのお恨みをはらしたいものだ」と仰せられると、重盛卿が申されるには、「これは少しも気にすることはありません。頼政・光基などと申す源氏どもにばかにされましたような際には、たしかに平家一門の恥でもございましょう。重盛の子供ともあろう者どもが、殿下のおでましに出会って、乗物から下りないことこそ、不作法なのです」といって、その時、事件に関係した侍どもを呼び寄せて、「今後も、お前たちはよくよく心得るがよい。まちがって殿下へ無礼をはたらいた事を、私のほうからおわびしたいと思っている」といって、帰られた。)
一度は重盛に止められた清盛ですが、怒りは収まらず、結局、基房に仕返しをしてしまいます。荒くれな侍たちを集めて基房一行を待ち伏せさせ、従者たちを襲って髻(もとどり)を切ってしまうのです。しかも「これはお前の髻とは思うな、お前の主人(摂政)の髻と思え」と言い含めながらです。「摂政関白(せつしやうかんぱく)のかかる御目(おんめ)にあはせ給ふ事、いまだ承り及ばず」(摂政関白がこんな目におあいになった事は、まだ聞いたことがない)というのも当然でしょう。
あとからこの顛末を知って慌てたのが重盛でした。重盛は、清盛にこんなことをさせる原因をつくった息子の資盛を厳しく咎(とが)めます。すでに12、3歳にもなろうという者が礼儀もわきまえずに振る舞い、「か様(やう)に尾籠(びろう)を現じて入道の悪名(あくみやう)をたつ」(このように無礼をはたらいて入道相国[清盛]の悪い評判を立てる)、それは不孝の至りだと言うのです。
『平家物語』においては、組織衰亡の要因は「驕り」と「悪行」であるという考えが示されています。驕りについてはすでに説明しました。悪行とは、むろん悪い行いですが、その最たるものは天皇家に取って代わろうとする意志です。物語の中では「王法を傾ける」という言い方でもよく表現されます。現代的な言い方をすると、現在の社会を成立させている根本秩序を壊そうとすること。これが悪行です。ですから、天皇の代理である摂政に無礼を働いたり仕返しをしたりするのも、悪行に当てはまるのです。
■『NHK100分de名著 平家物語』より
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忠盛は58歳で亡くなり、跡を継いだのが長男清盛でした。清盛は、その後に起きた保元の乱、平治の乱で後白河天皇(平治の乱では後白河上皇)側について武功を挙げ、またたくまに出世の階段を上ります。もともとは安芸の国司だった清盛は、たった十年余りで貴族の最高位である太政大臣にまで上り詰めます。また一族も、清盛の長男重盛は内大臣で左大将、三男宗盛は中納言で右大将、四男知盛は三位中将、孫の維盛(重盛の子)は四位少将の地位につき、八人の娘も天皇家や貴族に次々に嫁ぎます。
そんな中、「平家の悪行のはじめ」と言われる事件が起こりました。重盛の次男である資盛(すけもり)が、仲間と鷹狩りに行った帰りに、摂政である藤原基房の一行と行き会ったのですが、その際、馬を下りる礼をとらずに一行を駆け破ろうとしたのです。この事件を描くのが、巻第一「殿下乗合(てんがののりあひ)」です。
「摂政・基房」対「平資盛」。これは実は信じられない構図です。摂政とは、天皇が幼少のとき、天皇に代わって「万機を摂行する」、つまり、叙位・任官をはじめ天皇が持つ権限のすべてを代わってとり行う地位にある、貴族界の第一人者です。そんな人との間にこんなことが起きた。これは非常に大きな事件です。
さきほども述べたように、平家はこのときすでにかなりの勢力を誇っていました。平家を取り立てた後白河院ですら、これほどの勢力拡大は予測していなかったようで、「清盛がかく心のままにふるまふこそ、しかるべからね」(清盛がこのように思うままにふるまうのは、よろしくない)、 これは世も末になって天皇の法も尽きてしまったからだ、とこぼしていました。
摂政、基房の従者は資盛たちに対して、「無礼もの。馬から下りなさい」と命じます。これは当然です。それを言われたときの資盛の様子が、「余りにほこりいさみ、世を世ともせざりけるうへ、召し具したる侍さぶらひども、皆廿より内の若者どもなり、礼儀骨法(こつばう)弁(わきま)へたる者一人(いちにん)もなし」(あまりに平家の威勢を自慢し勇み立って、世間をなんとも思っていなかったうえに、召し連れた侍どもが皆二十歳以下の若者どもだし、礼儀作法をわきまえた者は一人もいない)と描写されます。町にたむろする不良のような、礼儀を知らない若者たちを引き連れた資盛が、貴族界の最高権力者と出会ってしまった。そして驕りから無礼を働いた。基房一行は憤り、資盛や侍たちを馬から引きずり下ろしてしまったのです。
これに怒ったのが清盛でした。以下は、激怒する清盛と、それを諫(いさ)める息子の重盛とが描かれる場面です。ちなみに摂政に無礼を働いた資盛は重盛の子です。
「たとひ殿下(てんが)なりとも、浄海(じやうかい)があたりをばはばかり給ふべきに、をさなき者に、左右(さう)なく恥辱をあたへられけるこそ、遺恨の次第なれ。かかる事よりして、人にはあざむかるるぞ。此事(このこと)思ひ知らせ奉らでは、えこそあるまじけれ。殿下を恨み奉らばや」と宣(のたま)へば、重盛卿(しげもりのきよう)申されけるは、「是(これ)は少しも苦しう候まじ。頼政(よりまさ)、光基(みつもと)なンど申す源氏共(げんじども)にあざむかれて候はんには、誠に一門の恥辱でも候べし。重盛が子どもとて候はんずる者の、殿の御出(ぎよしゆつ)に参りあひて、乗物よりおり候はぬこそ、尾籠(びろう)に候へ」とて、其時(そのとき)事にあうたる侍(さぶらひ)ども、召し寄せ、「自今(じこん)以後も、汝等(なんぢら)、能(よ)く能く心得(こころう)べし。あやまッて殿下(てんが)へ無礼の由を申さばやとこそ思へ」とて、帰られけり。
(巻第一 殿下乗合)
([清盛]「たとえ摂政殿であろうとも、浄海[清盛]の身内に対してははばかり遠慮なさるべきなのに、幼い者に、何の躊躇もなく恥をかかせたのは、遺恨な事である。こういう事から、人にはばかにされるのだ。この事を摂政殿に思い知らせてあげなくては、おられないぞ。摂政殿へのお恨みをはらしたいものだ」と仰せられると、重盛卿が申されるには、「これは少しも気にすることはありません。頼政・光基などと申す源氏どもにばかにされましたような際には、たしかに平家一門の恥でもございましょう。重盛の子供ともあろう者どもが、殿下のおでましに出会って、乗物から下りないことこそ、不作法なのです」といって、その時、事件に関係した侍どもを呼び寄せて、「今後も、お前たちはよくよく心得るがよい。まちがって殿下へ無礼をはたらいた事を、私のほうからおわびしたいと思っている」といって、帰られた。)
一度は重盛に止められた清盛ですが、怒りは収まらず、結局、基房に仕返しをしてしまいます。荒くれな侍たちを集めて基房一行を待ち伏せさせ、従者たちを襲って髻(もとどり)を切ってしまうのです。しかも「これはお前の髻とは思うな、お前の主人(摂政)の髻と思え」と言い含めながらです。「摂政関白(せつしやうかんぱく)のかかる御目(おんめ)にあはせ給ふ事、いまだ承り及ばず」(摂政関白がこんな目におあいになった事は、まだ聞いたことがない)というのも当然でしょう。
あとからこの顛末を知って慌てたのが重盛でした。重盛は、清盛にこんなことをさせる原因をつくった息子の資盛を厳しく咎(とが)めます。すでに12、3歳にもなろうという者が礼儀もわきまえずに振る舞い、「か様(やう)に尾籠(びろう)を現じて入道の悪名(あくみやう)をたつ」(このように無礼をはたらいて入道相国[清盛]の悪い評判を立てる)、それは不孝の至りだと言うのです。
『平家物語』においては、組織衰亡の要因は「驕り」と「悪行」であるという考えが示されています。驕りについてはすでに説明しました。悪行とは、むろん悪い行いですが、その最たるものは天皇家に取って代わろうとする意志です。物語の中では「王法を傾ける」という言い方でもよく表現されます。現代的な言い方をすると、現在の社会を成立させている根本秩序を壊そうとすること。これが悪行です。ですから、天皇の代理である摂政に無礼を働いたり仕返しをしたりするのも、悪行に当てはまるのです。
■『NHK100分de名著 平家物語』より
- 『NHK 100分 de 名著 平家物語 2020年 5月 [雑誌] (NHKテキスト)』
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