徳川斉昭はなぜ水戸にウメを植えたのか

紅冬至 撮影:F-64
水戸藩の9代目藩主であり、江戸幕府最後の将軍・慶喜(よしのぶ)の父、斉昭(なりあき)。ウメの少なかった水戸に小石川後楽園のウメの実を自ら集めて送り、名園・偕楽園をつくり、領民にも開放しました。2020年東京大会に向けて江戸の園芸を見つめ直す12回シリーズ。第11回は斉昭をとりこにしたウメの魅力に迫ります。

* * *


■ウメの名園・水戸の偕楽園

ウメは冬の寒さに負けず美しく咲き、春の訪れを告げる花木として親しまれてきました。中国原産ですが、日本では奈良時代には広く栽培されていました。
水戸徳川家第9代藩主・徳川斉昭(1800〜1860年)が生まれたのは、水戸黄門で有名な第2代藩主の光圀(みつくに)が亡くなってからちょうど100年後のことです。「一張一弛(いっちょういっし)」を重んじた斉昭は、藩校の弘道館で勉強したあとに心身を癒すための施設として、偕楽園を構想し、つくりました。

■花の美しさと果実の利用

江戸時代、ウメは全国の城郭庭園(大名庭園)に好んで植えられました。斉昭は水戸にウメを植えた理由を「種梅記(しゅばいき)」に残しています。
①花は雪の中でも先駆けて咲き、詩歌のよき題材となる。②果実には酸が含まれ、食すと人々の喉の渇きを取り、疲れを癒やす。③梅干しは保存が利き、防腐・殺菌効果もあるので、軍事の際の非常食として役立つので蓄えておくべきである。
江戸時代にはウメの品種改良が進み、図譜も多く残っています。有名な『韻勝園梅譜(いんしょうえんばいふ)』をまとめた旗本・春田久啓(ひさとお/1762年〜没不詳)はウメの育苗で稼ぎつつ名品を集めた、まさに江戸のガーデナーでした。図譜からはウメをめぐって大名や幕臣、町人、植木屋らの身分を超えた交流もうかがえます。
こうしたウメの花の魅力に加えて、実用面も強調したのが斉昭でした。当時は度重なる異国船の出没で世の中が騒がしくなり始めたころ。時代の雰囲気を反映しているのかもしれません。
■『NHK趣味の園芸』連載「大江戸 花競べ十二選」2020年2月号より

NHKテキストVIEW

NHKテキスト趣味の園芸 2020年 02 月号 [雑誌]
『NHKテキスト趣味の園芸 2020年 02 月号 [雑誌]』
NHK出版
商品を購入する
>> Amazon.co.jp
>> HMV&BOOKS

« 前のページ | 次のページ »

BOOK STANDプレミアム