『道草』で漱石が描いたおどろおどろしい「私生活」

第3回で取り上げる『道草』は、1915(大正4)年の作品です。漱石は、翌16年に『明暗』を連載中に急死するので、この『道草』は最後の完成作となります。
作品ごとに新しい試みを見せる漱石ですが、『道草』にもこれまでにない要素があります。それは「私生活」です。東京大学教授の阿部公彦(あべ・まさひこ)さんが冒頭部を引きながら解説します。

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当時の文壇ではフランスの作家エミール・ゾラの影響を受けた「自然主義」が力を持っていました。ゾラは観察に基づいた客観的描写の重要性をとなえた人。ところが日本に入ってきた自然主義は独自の色を持つようになります。次第に客観性より、事実を隠さずにそのまま書く暴露性が優先されるようになり、その「事実」も嫌なこと、醜いことが多くなってきます。私小説作家の作品によく見られる私生活の赤裸々な活写は、こうした流れの延長上にあります。
漱石はそんな風潮から距離をとっていました。その作品はとても事実そのままとは言えない。謎もあればサスペンスもある。幻想も妄想もある。そんなスタンスに対し、自然主義陣営は批判的でした。第1回で、漱石が「読者を面白がらせなければならぬと云ふ職業意識」で作品の質を落としているという正宗白鳥のコメントを紹介しましたが、彼は自然主義陣営の大御所でした。
ところがその白鳥が、この『道草』に関しては賛辞を送っているのです。たしかに、この作品は漱石にしては珍しくプロットらしいプロットがなく、事実がそのまま書かれている風である。自伝的な要素がたっぷりで、とくに夫婦関係などの私生活が詳細にわたって描かれています。漱石が「オレだって、自然主義やれるぞ!」とばかりに書いた作品との見方もそれほど間違っていないかもしれません。
ただ、実際に『道草』という小説を読んでみると、「なるほど自然主義的な作品ですね」だけではすまないところがあります。自伝的小説というレッテルからはみ出す部分がけっこうある。そして、そこがまさに旨味にもなっている。そのあたりを確認するために、冒頭部を見てみましょう。注目したいのは、主人公が「思い懸けない人」と出会う場面。何だかおどろおどろしくて、大袈裟です。
健三(けんぞう)が遠い所から帰って来て駒込(こまごめ)の奥に世帯(しょたい)を持ったのは東京を出てから何年目になるだろう。彼は故郷の土を踏む珍らしさのうちに一種の淋(さび)し味(み)さえ感じた。
彼の身体(からだ)には新らしく後に見捨てた遠い国の臭(におい)がまだ付着していた。彼はそれを忌(い)んだ。一日も早くその臭を振い落さなければならないと思った。そうしてその臭のうちに潜んでいる彼の誇りと満足には却(かえ)って気が付かなかった。
彼はこうした気分を有(も)った人に有勝(ありがち)な落付(おちつき)のない態度で、千駄木(せんだぎ)から追分(おいわけ)へ出る通りを日に二辺(へん)ずつ規則のように往来した。
ある日小雨(こさめ)が降った。その時彼は外套(がいとう)も雨具も着けずに、ただ傘(かさ)を差しただけで、何時(いつ)もの通りを本郷(ほんごう)の方へ例刻に歩いて行った。すると車屋の少しさきで思い懸けない人にはたりと出会った。その人は根津権現(ねづごんげん)の裏門の坂を上(あが)って、彼と反対に北へ向いて歩いて来たものと見えて、健三が行手を何気なく眺(なが)めた時、十間(けん)位先から既に彼の視線に入ったのである。そうして思わず彼の眼(め)をわきへ外(そら)させたのである。
彼は知らん顔をしてその人の傍(そば)を通り抜けようとした。けれども彼にはもう一遍この男の眼鼻立を確かめる必要があった。それで御互(おたがい)が二三間の距離に近づいた頃(ころ)又眸(ひとみ)をその人の方角に向けた。すると先方ではもう疾(と)くに彼の姿を凝(じつ)と見詰めていた。
(中略)
彼はこの男に何年会わなかったろう。彼がこの男と縁を切ったのは、彼がまだ二十歳(はたち)になるかならない昔の事であった。それから今日(こんにち)までに十五六年の月日が経(た)っているが、その間(あいだ)彼等はついぞ一度も顔を合せた事がなかったのである。(中略)帽子なしで外出する昔ながらの癖を今でも押通しているその人の特色も、彼には異な気分を与える媒介(なかだち)となった。
(中略)
その日彼は家へ帰っても途中で会った男の事を忘れ得なかった。折々は道端へ立ち止まって凝と彼を見送っていたその人の眼付に悩まされた。
いかがでしょう。力のこもり具合がよく伝わってきます。とくに力点がおかれているのが謎。そして不安。全体に暗い、澱んだ空気が流れています。「遠い所から帰って来て」とか「東京を出てから何年目になるだろう」など、いちいちもったいぶった書き方をしている。せっかくの出だしなのにおよそさわやかでない。重苦しく視界が曇っています。
そんななかにいかにもあやしい男が登場するわけです。十五年以上前に縁を切った帽子を被らない謎の男です。いったい何者? 不気味な存在です。どうやら健三はこの人物のことを知っているようですが、こちらには十分に情報が知らされず、曖昧模糊(あいまいもこ)としています。
印象に残るのは、「眼」の描写です。健三は男の姿を見ると「眼をわきへ外(そら)させた」。ところがふと見ると、男は健三のことを見つめていたりする。「もう疾(と)くに彼の姿を凝(じつ)と見詰めていた」。健三の眼にはこの視線が焼きつきます。「折々は道端へ立ち止まって凝と彼を見送っていたその人の眼付に悩まされた」という。まるでストーカーに追いかけられた気分でしょう。
小説では、この先、病気や金の貸し借りのことなど、いかにも泥臭い日常が描かれます。どんな家庭にもある裏事情です。事実ありのままとも見える。でも、冒頭部が特徴的に示していたように、世界の根本には奇妙で謎めいた穴がぽっこり空いている。そのせいで、得も言われぬ「気持ち悪さ」が生まれる。
これこそが漱石の描く「私生活」なのです。私小説作家の赤裸々な告白とは違う。恥ずかしくて言えないことをあえて暴露する、という話ではない。漱石の日常は、もっと捉えどころのない恐ろしげで暗い感覚へとつながるのです。
※続きはテキストでお楽しみください。
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