結婚わずか半年で未亡人に... 22歳の若さで30億円もの負債を背負った「力道山未亡人」の半生
- 『力道山未亡人』
- 細田 昌志
- 小学館
- 1,980円(税込)
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日本プロレスを創業し、戦後の日本にプロレスブームを起こした力道山。国民的スターとなった彼は、1963年6月5日に日本航空のキャビンアテンダントである田中敬子氏と現在の価値で2億円を超える盛大な結婚披露宴をおこなった。ところが、そのわずか半年後の12月9日に暴力団員に刺され、そのときに負った傷が原因で同年12月15日に39歳でこの世を去る。
突然の夫の死により、22歳の若さで夫が遺した5つの会社と30億円もの負債を背負うことになった敬子氏。細田昌志氏の著書『力道山未亡人』(小学館)は、そんな力道山の妻・田中敬子氏の数奇な半生を紐解いたノンフィクションだ。
敬子氏は、1941年6月6日に神奈川県横浜市保土ヶ谷で警察官の田中勝五郎氏と妻・鶴子氏の間に生まれた。2歳下の弟・勝一氏も含めた4人家族で暮らすも、4歳のときに母である鶴子氏を病気で亡くす。その後、すくすくと育った敬子氏は、小学校6年生のときに健康優良児・神奈川県代表に選ばれる。さらに高校2年生のときには「横浜開港百年記念・英語論文コンクール」で、社会人や大学生を抑えて特等賞に輝いた。
外交官になって世界中を飛び回ることが夢だった敬子氏。しかし、外交官になるために受けた国際基督教大学が不合格だった彼女は、浪人期間中に度胸試しとして「日本航空客室乗務員」の臨時募集に応募する。その結果、高い倍率を潜り抜けて見事合格し、当時の花形職業であるキャビンアテンダントとなった。
そんな敬子氏の人柄を、日本航空の同期入社である染谷凱子氏は以下のように語る。
「明るくて朗らかで、当時のニックネームは『皇后陛下』。彼女がいるだけで場が明るくなる存在でした。敬子さんの長所はたくさんあるけど、何より人の悪口を絶対に言わないこと。これって、なかなか出来ることじゃない」(同書より)
彼女はまた、差別をしない人でもあった。結婚前、力道山から自身が朝鮮半島の生まれであることを打ち明けられた敬子氏は「あ、そうだったんですか」とあっけらかんと返す。拍子抜けした力道山が「何とも思わないのかい」と聞くと、敬子氏は以下のように答えた。
「ええ、何とも思いません。あなたがいい人であれば、何人だろうと、どこで生まれようと、私には何の関係もありませんから」(同書より)
その言葉を聞いた力道山は大粒の涙を流したという。
人の悪口を言わず、差別もしない敬子氏は、人一倍寛容でもある。敬子氏と結婚する前から、力道山には内縁の妻との間にできた3人の子どもがいた。力道山との交際時、3人の子どもたちとは別の場所で暮らしているため、何も心配はいらないと聞かされていた敬子氏。
しかし婚約が決まり、力道山の所有するリキアパートの8階に住み始めた敬子氏は、ある日突然彼からこう告げられる。
「今日、子供たちと会わせようと思う」(同書より)
なんと力道山は、3人の子どもをリキアパートの9階に住ませていたのだ。力道山は敬子氏を新しい母として紹介し、これから一緒に住むことになると告げた。当時、子どもたちは長女の千恵子が19歳、長男の義浩が17歳、次男の光男が14歳。22歳の敬子氏にとって、それほど年の変わらない子どもたちの親になることはかなりのプレッシャーになるはずだ。
しかし、敬子氏は「家族になるわけだし」と3人の子どもたちとの同居を受け入れた。そして夫の死後、相続を放棄してキャビンアテンダントに戻る選択肢もあったにもかかわらず、彼女は以下のように子どもたちのことを考えて覚悟を決めたのだ。
「そんな無責任なことは出来ないでしょう。みんな路頭に迷ってしまう。千恵ちゃんは短大を辞めなきゃいけなくなる、よっちゃんとみっちゃんは、私立から公立に転校しなきゃなんなくなる。『そんなことを、あの人は絶対に望んでない』って思ったんです」(同書より)
22歳の若さで5つの会社の社長となり、女性という立場でプロレスという特殊な業界を仕切っていくことは決して容易ではない。実際に敬子氏も時には見放され、時にはいいように利用されもした。同書では、そんな敬子氏の苦労や葛藤も事細かに記載している。
また、「力道山十三回忌追善特別大試合」の出場を巡るアントニオ猪木氏とジャイアント馬場氏の興行戦争や、2000年におこなわれた「アントニオ猪木対滝沢秀明」のドリームマッチなど、敬子氏だからこそ語ることのできるプロレスの裏話も満載だ。同書を読むことで力道山や日本のプロレス史への理解が深まることはもちろん、力道山が妻として選んだ田中敬子氏の魅力を知ることができるだろう。