B29に風船で対抗していた日本軍 ~『教師 曽我静雄』
- 『教師 曽我静雄―戦時下に女生徒を救った教師の物語』
- 吉野 興一
- 新読書社
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先の第二次世界大戦中、当時の米軍の最新鋭爆撃機B29が北九州・小倉の八幡製鉄所などを爆撃していた時、それを迎え撃つ日本軍が「風船爆弾」という悠長な作戦を遂行していたことはあまり知られていません。
風船爆弾とは
1.和紙をこんにゃく糊で何枚も貼り合わせる。何層にも貼り合わせたものを「気球原紙」と呼ぶ。
2.「気球原紙」をつなぎ合わせ、気球の球皮部分を作る。大きさは直径10m。
3.気球に水素ガスを注入し、それに爆弾や焼夷弾をつるす。
4.当時の研究者が発見していた高々度の偏西風(後に「ジェット気流」と呼ばれるもの)に気球を乗せると、二昼夜あまりでアメリカに到達する。
というもの。日本軍はこの風船爆弾を1万5000発製造し、そのうち9000発を実際に大空に放ちましたが、アメリカ大陸に到達が確認されたものは361発で、期待したような森林火災やパニックは起きませんでした。
また驚くべきことは、この風船爆弾を製造していたのが、今でいうところの女子高生だったということ。松山城北高等女学校の生徒180名は、「学徒動員」の名の下で松山から大阪まで狩り出され、激しい空襲にさらされながら風船爆弾製造の作業に追われました。幸いにして松山城北高女の生徒たちは、引率の曽我静雄先生の類いまれなる戦況判断のおかげで全員無事に松山に帰り着きましたが、帰り着くまでには実に225日を要したそうです。
曽我先生は敗戦前から「物量でこれだけの大差があり、科学もこれだけおくれていて、勝つわけがない」と冷静に戦況を分析していたそうです。ところが、はるか2500km離れた中国の航空基地を飛び立ったB29が日本の制空権を掌握し、日本上空を我が物顔で旋回していた時、対する日本軍はこの風船爆弾を「決戦兵器」と呼び、風の流れに日本国民の運命を託していたのでした。