第14回 『映画術/その演出はなぜ心をつかむのか』〜現役映画監督の視点で書かれた、名作の秘密。
- 『映画術 その演出はなぜ心をつかむのか』
- 塩田明彦
- イースト・プレス
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★「逆算」ではなく、原点から演出を重ねていく視点。
例えば1本の映画について語るとする。様々な視点に基づいて、作品を論じよう。映像の美しさ、弾むような台詞の応酬、俳優たちの見事な演技、心に響く音楽、本物と見間違うようなリアルな美術。そしてそれらを「作品」としてまとめ上げた監督の演出手腕。映画を見て感じること、思うことを語り合うのがとても楽しいことは言うまでもない。ただしそれは、あくまで「完成した作品」を客観的に見た感想になるわけで、作品を作ったスタッフ、キャストが、そこに至るまで何度も逡巡や葛藤を巡らした、そのプロセスは知る由もない。
『害虫』『月光の囁き』『黄泉がえり』『カナリヤ』『抱きしめたい』など、作家性の強いインディペンデント映画からテレビ局が主導する大作まで、柔軟なスタンスで作品を発表し続けている塩田明彦監督の著書『映画術』を一読して驚いたのは、「監督の視点」に基づいた映画評が、映画評論家や観客の放つ批評や感想の類いとは大きく異なっていることだ。
冒頭の「動線」についての解説と解釈。溝口健二監督の名作『西鶴一代女』と成瀬巳喜男監督の『乱れる』を例に挙げて、両作品のテーマが「一線を越えてはいけない男女が、その一線を越える」ことであり、それをいかに表現したかを語っている。映画評論家ならば、完成した作品から読み取れる映像と俳優の演技を取り上げることで、テーマとの連動性を語ることだろう。だが『映画術』では違う。俳優たちがセットの中でどのような演技をし、監督はいかにして彼らを「動かした」のか。つまり通常の映画評論が、完成した作品から「逆算」して語られるのに対して、塩田監督の場合は、まず演出ありき。スタジオのセットをどう組み立て、そこに俳優を配置して、動きと台詞を通してテーマである「一線を越える」イメージを喚起させるかに着目しているのだ。つまり「原点」から演出を重ねる形で映像表現を完成させたかを語っているのだ。これは撮影現場に立った監督ならではの発想と言える。
★『月光の囁き』のつぐみは、なぜ眼帯をしているのか?
さらに塩田監督は、自作に用いた様々な手法に対しても、その意図やテクニックを本書の中で披露している。
例えば、少年と少女のSM的な関係を描いた、青春映画の傑作『月光の囁き』で、女王然として振る舞うつぐみの顔に、眼帯をつけて片目を隠した。塩田監督はヒッチコックの『サイコ』のシャワーシーンを例に挙げ、「惨殺されるジャネット・リーの顔が、人間から物体へと化す瞬間を、観客は目撃する」と評し、それに対して『月光の囁き』の、眼帯をつけたつぐみの表情が「何かを見ているようで、焦点を結ばせない...眼球としての瞳が生々しく、生きた物質として現れ、そこにエロティシズムが浮かび上がってくる」ことを狙ったと語っている。「このへんは理屈じゃないんです」と言葉を添えて。
★ソフトに語られた、「芸談」。
『映画術』は塩田監督が書き下ろしたものではなく、彼が映画美学校で行った講座を採録し、該当作品の場面写真を解説的に掲載した本である。実を言うと、筆者も塩田監督の講座を一度拝聴したことがある。もう10年以上前のことだが、その時はゴジラを『極道の妻たち』になぞらえたテーマだった。彼の語り口は、とても落ち着いていてソフト、声を荒げたり自分の考えを押しつけるような強引さがない。『映画術』では、この塩田監督の話法がそのまま採録されているあたりがうれしく、また読みやすい。
『映画術』という書名を聞くと、ヒッチコックとトリュフォーの対談『映画術/ヒッチコック トリュフォー』を連想する映画ファンも多いだろう。両巨匠の名書が「これは芸談」と評されたように、塩田版『映画術』も現役映画監督である塩田氏が、溝口、成瀬、サミュエル・フラーやロベール・ブレッソン、神代辰巳といった巨匠たちの演出テクニックについて、あたかも本人と言葉を交わしたような「芸談」であることを目ざしたように感じられる。そのシチュエーションを我々は、本書を通して目撃出来るのだ。
「その演出はなぜ心をつかむのか」との副題に嘘はない。
(文/斉藤守彦)