全体主義の母胎は19世紀の「反ユダヤ主義」だった

ドイツ系ユダヤ人の政治哲学者ハンナ・アーレントは、1933年にナチスが政権を掌握するとまずフランスへ、次いでアメリカへの亡命を余儀なくされました。ニューヨークに到着したのは1941年5月。その頃から、ドイツではホロコーストの動きが加速していきます。金沢大学法学類教授の仲正昌樹(なかまさ・まさき)さんが、全体主義の母胎となった19世紀の「反ユダヤ主義」について解説します。

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ナチスによる反ユダヤ主義政策の仔細が明らかになると、世界中に大きな衝撃が走りました。アーレントも例外ではありません。それは「奈落の底が開いたような経験」だったと後述しています。同胞を虐殺されたことは、その後の彼女の学問的原点となりました。
戦後、真っ先に取り組んだのは、この恐るべき「最終解決」を遂行した全体主義についての研究でした。その結晶である『全体主義の起原』ははじめ三部構成の一冊で刊行されましたが、のちに各部がそれぞれに序文を付したかたちの三巻本として出版されることになります。サブタイトルは、第一巻が「反ユダヤ主義」、第二巻が「帝国主義」で、ナチス・ドイツとスターリン主義のソ連という全体主義そのものについて考察する第三巻「全体主義」に至る、いわば前史となっています。今回取り上げる第一巻では、近代的な国民国家の誕生によって「反ユダヤ主義」が次第に深刻化・先鋭化し、全体主義の母胎となっていく過程を考察しています。
ユダヤ人に対する迫害は、かなり前から実は頻繁にありました。社会不安や行き場のない怒りが鬱積(うっせき)すると、ユダヤ人をスケープゴートとして集団的に迫害、追放、虐殺する「ポグロム」と呼ばれる現象です。
しかし、19世紀の西欧社会に広がった反ユダヤ主義は、それとはまったく異なる政治的意味を持っているとアーレントは言います。
反ユダヤ主義とユダヤ人憎悪は同じものではない。ユダヤ人憎悪というものは昔からずっと存在したが、反ユダヤ主義はその政治的、及びイデオロギー的意味において19世紀の現象である。

(『全体主義の起原』第一巻、以下引用部は同様)



ユダヤ人のなかには、すでにユダヤ人独特のライフスタイルを捨て、市民社会のなかに溶け込む人も増えていました。ユダヤ教の信仰を捨てて、キリスト教徒になった人も少なくありません。
一見すると、かなり溶け込んでいたのに(むしろ溶け込んでいたからこそ)、19世紀になってユダヤ人は改めて迫害の標的とされてしまった。それは、ちょうどその頃に西欧で勃興した近代的な「国民国家」が、スケープゴートを必要としていたからであり、そこには国家の求心力を高めるための「異分子排除のメカニズム」が働いていた、とアーレントは考察しています。19世紀の反ユダヤ主義は、異教徒や異質な人間に対する漠然とした憎悪ではなく、国家の構造やイデオロギーと密接に結びついた現象だったというわけです。
■『NHK100分de名著 ハンナ・アーレント 全体主義の起原』より

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ハンナ・アーレント『全体主義の起原』 2017年9月 (100分 de 名著)
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