豊臣家滅亡の瞬間、北政所は何を思っていたか

天下人・豊臣秀吉(とよとみ・ひでよし)の正室、北政所(きたのまんどころ)。当時としては珍しい恋愛結婚で、母親の反対を押し切って結婚したといわれています。不在がちな秀吉に代わって領地の経営を取り仕切り、秀吉が関白の座に就いてからは朝廷とのやり取りや全国の大名の人質の管理までを一手に引き受けていました。秀吉の死後から大坂夏の陣で豊臣家が滅亡するまでの間、北政所の心境はどのようなものだったのでしょうか。東京大学史料編纂所教授の本郷和人(ほんごう・かずと)さんが推察します。

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■正室・北政所を立てぬ淀殿 北政所は秀頼の養育権を放棄した?

最近では北政所と淀殿は仲がよかったという説も出ていますが、果たしてどうでしょうか? 少なくとも秀吉生存中は、表面上仲よくしていたと思います。秀吉は北政所に気を遣い、正室としての面目が立つようにしていました。しかし、秀吉という緩衝役がいなくなると、北政所は大坂城を退去します。つまり自らの意志で豊臣家から出たわけですよね? 淀殿との仲が悪かったとはいいませんが、よくはなかったと思います。
このあたりは、逆に世の女性たちに問いたい。戦国時代の武家のならいとして、正室は側室が産んだ子でも表向きは自分の子として育てなければならなかった。ただし、これはあくまで表向きです。自分が産んだ子どもでもないのに育てなければならず、産みの親の側室はどんどん態度が大きくなる。「もう知ったことじゃない」と考えるのが普通ではないでしょうか? だから大坂城を出た。諸説ありますが、北政所は秀頼の養育権を放棄した、もしくは淀殿から拒絶された、と私は考えます。

■政治から離れようとするもそれを許されない晩年

北政所は大坂城を出たあと、出家して秀吉の菩提(ぼだい)を弔うことに専念します。もう半分は世を捨てているわけです。ですから関ヶ原の戦いも大坂の陣も、彼女は関わりたくない、というのが本音ではないでしょうか。しかし、北政所に恩義を感じている大名たちは、彼女のことを放っておかない。何かにつけ手紙や贈り物をし、ご機嫌を伺いに来るわけです。徳川家康にしても同じです。このため否が応でも、生臭い政治の世界と関わらざるを得なかった。ただし、関ヶ原の戦い直前、甥の小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)に東軍へ寝返るよう説得した、というエピソードがありますが、北政所が自主的にそうした説得や助言をするとは思えません。

■大坂の陣で豊臣家が滅亡 そのときの北政所の心境は?

北政所が豊臣家の滅亡をどう捉えたかですが、これは難しい問題です。燃え上がる大坂城を見て(または伝え聞いて)、「秀吉と築いた豊臣家もなくなった」と、寂しい気持ちになったでしょう。しかしその反面、せいせいしたというか、「はいおしまい」といった達観した気持ちもあったのではないかと思います。大坂の陣の際、北政所が淀殿の説得に向かおうとしたところ、家康の監視役に阻止されたというエピソードがありますが、これは怪しい。関ヶ原の戦い以降、淀殿の徳川幕府に対する行動は、北政所から見ると非常に危なく見えたはずです。本気で豊臣家を救いたい気持ちがあるなら、大坂の陣よりもっと前に説得するでしょう。
北政所が伊達政宗(だて・まさむね)に出した手紙には、「大坂の事については、申し上げるべき言葉もありません」といった内容が書かれています。これをどう考えるかですね。「なんとかしたかったけど、できなくて残念」なのか、「私とは関係ありません」なのか。私は後者だと考えます。
ちなみに、北政所の兄・木下家定(きのした・いえさだ)は、備中足守(びっちゅうあしもり)藩(岡山県岡山市)初代藩主となっています。家定の三男・延俊は豊後日出(ぶんごひじ)藩(大分県速見郡日出町)初代藩主。両家は幕末まで続きました。先ほどの小早川秀秋は家定の五男です。豊臣家は滅びましたが、木下家は残ったのです。
■『NHK趣味どきっ! 姫旅 華麗なる戦国ヒロイン紀行』より

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