囲碁を通じて政治の表舞台への切符を手に入れた大久保利通

テキスト『NHK囲碁講座』では、元参議院議員の藁科満治(わらしな・みつはる)さんが綴る「囲碁文化の歴史をたどる」が好評連載中です。9月号では、明治日本の元勲の一人、大久保利通と囲碁の関わりについて紐解きます。

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大久保利通(おおくぼ・としみち/1830〜1878)は、唯一の趣味が囲碁と言われるくらい碁を打つことを好んだ人物です。大久保利通の次男であり、のちに政治家として活躍した牧野伸顕(まきの・のぶあき/日本棋院初代総裁)は、父の思い出として「娯楽は碁で、退屈したり頭を使い過ぎたときは、碁を囲んで慰めていた」と後年語り残しています。頭を使い過ぎたときには何も考えずに休みたいと思うのが一般人の考えることですが、さらに頭を使う囲碁を通じ、リラックスしていたというのは、いかにも頭脳明晰(ずのうめいせき)な大久保らしいエピソードだと言えます。
大久保が囲碁を始めたのは、少年時代のようです。
嘉永元年(1848)正月四日に書かれた大久保の日記(企画展『重要文化財大久保利通関係資料』)には次のように書かれています。
「八ツ前牧野氏被訪碁打相企三番打、拙者勝負マケいたし候」
この記述によると「午後二時前に牧野(喜平次)が大久保宅を訪れ、三回勝負の囲碁を打ったが負けてしまった」ということのようです。当時の大久保は、まだ弱冠十七歳の若者です。若いころから囲碁を好み、趣味にしていたことが分かります。そして、大久保はこの唯一の趣味である囲碁を通じて、のちに薩摩藩の政治中枢へ近づくことを企てたのです。
政治中枢に近づくといっても、大久保の生まれた家は家格が低く、とても藩政の中枢に直接意見を言える身分ではありませんでした。利通の父・利世は御小姓与(おこしょうぐみ)と呼ばれる家格の下級藩士で、藩主に御目見得(おめみえ)どころか藩の執政たちと直接言葉を交わすこともできない下っ端でした。利通は、弘化三年(1846)に記録所書役助として藩に出仕しますが四年後に起こった「お由羅騒動」で、上司とともに謹慎します。島津斉彬が藩主になると復職し、そして、精忠組の領袖として活動します。
安政五年(1858)新藩主に島津茂久が就任し、それに伴い藩政の実権は茂久の実父である島津久光が握ることになりました。久光は、自らを「国父」と呼ばせ、絶大な権力をふるいます。ここに目を付けた大久保利通は、何とか久光に接近し、失脚中の西郷隆盛に代わり精忠組代表として、若い藩士たちの意見を久光にぶつけようと試みます。久光が囲碁好きで、いつもその相手をしているのが吉祥院住職・乗願(じょうがん)であることを突き止め、友人の税所篤(さいしょ・あつし)がときどき乗願と囲碁を打つことを聞き、税所の紹介で乗願と碁を打つようになりました。そして、あるとき、大久保は自分たちの主張(公武合体論を中心として藩論を統一することを求めた)をまとめた手紙を、乗願を通じて久光に渡すことに成功したのです。その手紙の内容に感心した久光は、文久元年(1861)、利通を御小納戸役に抜擢して家格を引き上げ、いつでも久光が利通に会えるように計らったのです。その後、利通は久光を擁して京都の政局に関わり、公家の岩倉具視(いわくら・ともみ)らと公武合体政策を画策、一橋慶喜(ひとつばし・よしのぶ)の将軍後見職、福井藩主松平慶永(まつだいら・よしなが)の政事総裁職就任などを進めました。そして、西郷とともに政治の中枢で活躍し、慶應三年(1867)に幕府将軍徳川慶喜が大政奉還を行うと岩倉とともに王政復古のクーデターを計画、実行したのは周知の事実です。
大久保利通は下級武士の家に生まれながら、唯一の趣味であった囲碁を通じて政治の表舞台に飛び出すきっかけをつかんだと言えましょう。
大久保の死後90年経った昭和四十三年(1968)、日本棋院は、大久保に対して「名誉七段」の免状を贈りました。これは、大久保と囲碁をめぐるさまざまなエピソードが、歴史的にも注目されてきたことに対する顕彰として贈られたものです。大久保がどれほどの腕前であったかは定かではありませんが、囲碁を唯一の趣味としていた大久保は、おそらく天上で「名誉七段」の授与を心から喜んでいるに違いありません。
■『NHK囲碁講座』2015年9月号より

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